スペシャルインタビュー

サウンドデモ、反原発デモから、SEALDsへ──ラッパーECDが語る「デモの新しい可能性」

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 ECDがこう話すのは、おそらく彼自身がデモのあり方をずっと模索し、試行錯誤を繰り返してきたからだろう。

 ECD が本格的なデモに参加するようになったのは、意外にも40歳を過ぎてからだという。だが、その一方で、こんなエピソードも教えてくれた。

「小学校6年生の時に自分でデモを主催したことがあるんですよ(笑)。当時、学校で長馬って遊びが危ないからって禁止になったんですけど、それに対して『禁止反対』ってデモを僕が言い出しっぺになってやりました。教室の窓にビラを貼ったりとか、プラカードを持って校庭を練り歩いたりとかして。担任の先生もはじめは応援してくれてたんですけど、校長先生やPTAになにか言われたのか、途中でコロっと態度が変わって潰されてしまいましたね(笑)」

 早熟にも、小学生でデモを体験してしまったECDだが、そのあとは、音楽や演劇に夢中になって、政治や社会問題とはほとんど無縁のまま青春を過ごしたという。

 ECDが社会問題に目を向けるようになったのは20代後半、チェルノブイリの原発事故がきっかけだった。その後、この事故をテーマに「PICO CURIE」という楽曲を書き上げる。〈どこにも灰降る死の灰死の灰〉と放射能に対する恐怖をラップしたこの曲は、日本にヒップホップ文化が根付く黎明期において突出して本物志向の楽曲として高い評価を受ける。1989年にはレコード化され、彼が世間に知られるきっかけともなった。だが、ECDは当時のことを振り返りこう分析する。

「いま思うとサブカル的な態度でつくった曲ですよね。恐怖を消費してるだけなんですよ。今思えば。だから、反原発をテーマにした曲を書いたからといって、反原発デモに参加してみるかっていう考えもなかったです」

 しかし、その後、ECDの姿勢を大きく変える事件が起こる。それは、9.11の自爆テロ、そして、それに端を発したアメリカによる報復戦争だ。

 ECDは「これからの世界がどこへ向かうのかわからなくなったし、『戦争』というものが自分にも無関係なものではなくなった」と恐怖に苛まれたと言う。彼のなかで「戦争」がリアリティをともない始めた。

 そして、後のECDの人生を決定づけたのは、イラク戦争開戦当日の2003年3月20日、職場のテレビで見たニュース映像だった。

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