村上春樹がエッセイ『猫を棄てる』を書いたのは歴史修正主義と対決するためだった! 父親の戦中の凄惨な中国人虐殺の記憶を…

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村上春樹『猫を棄てる』(文藝春秋刊)/pre>


 村上春樹が4月下旬に出した異例のエッセイ『猫を棄てる──父親について語るときに僕の語ること』(文藝春秋)が話題をよんでいる。エッセイは1年ほど前「文藝春秋」(文藝春秋)2019年6月号に発表したものだが、何が異例かというと父親との思い出について綴られていることだ。

 周知のとおり、これまで村上春樹は、父親が国語教師であることなど断片的に触れることはあったものの、自身の育った家族についてほとんど語ってことはなかった。それは、村上が日本文学特有の「私小説」的なウェットさと距離を置いてきた作家であることも関係しているだろう。

 にもかかわらず、ここにきて日本文学の典型的な主題である「父親」を正面から描く文章を発表したことは、驚きをもって迎えられたのである。

 なぜ村上春樹は自身の文学スタイルを崩してまで、いま、父親について書いたのか。『猫を棄てる』を読み始めると、その理由はすぐにわかる。

 それは、いま日本社会に蔓延る歴史修正主義に抵抗するためだ。

『猫を棄てる』は、冒頭こそ少年時代の村上春樹と父との思い出のひとコマが描かれるが、そのほとんどは父の戦時中の軍歴を紹介することに費やされている。

 村上春樹の父は1917年に京都にある安養寺というお寺の次男として生まれた。その後、1936年に旧制東山中学校を卒業し、18歳で西山専門学校に入る。寺の息子として、僧侶の勉強をすることになっていたのである。

 本来であれば学校を卒業するまでの4年間は徴兵猶予を受ける権利があったのだが、事務手続きを忘れていたために徴兵されてしまう。

 父は第十六師団(伏見師団)に所属する輜重兵第十六連隊に属し、1938年に特務二等兵として中国へ送られる。まともな補給もない環境での戦いを父はなんとか生き延びるが、そんな戦地で目にした残酷な出来事を一度だけ息子に向けて語ったことがあるという。それは、初年兵に度胸をつけさせるため中国人捕虜を軍刀で殺させている光景の記憶だった。

〈中国兵は、自分が殺されるとわかっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首された。実に見上げた態度だった、と父は言った。彼は斬殺されたその中国兵に対する敬意を──おそらく死ぬときまで──深く抱き続けていたようだった。
 同じ部隊の仲間の兵士が処刑を執行するのをただそばで見せられていたのか、あるいはもっと深く関与させられたのか、そのへんのところはわからない。〉

 それにしても、村上春樹はなぜいまこのようなエッセイを書いたのだろうか。その理由は明白だ。戦争の記憶を受け継ぐためである。先に引いた中国兵処刑のくだりで村上はこのように書いている。

〈軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを──現代の用語を借りればトラウマを──息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?〉

 そして、村上はエッセイのなかで繰り返し、歴史や記憶を次の世代につないでいくことについて書き、最後にはこんな文章でしめている。

〈我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と〉

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