憲法前文の“てにをは”を攻撃した石原慎太郎の“てにをは”がヒドい!

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石原慎太郎公式サイト「宣戦布告」より


「日本国憲法は日本語として明らかに間違っている!」

 相次ぐ閣僚のスキャンダルで荒れる国会だが、30日の衆院予算委員会で次世代の党の最高顧問である石原慎太郎がこんな理屈で安倍晋三首相に“改憲”を迫った。

 石原が問題にしたのは、前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というくだり。石原によれば、この「信義に」は文法的に間違いで、「信義を」が正しいのだという。「助詞の『に』の使い方が明らかに間違いだ。おかしな日本語は日本に厄介な問題をもたらす9条につながっている」という論理を展開。「間違った助詞の一字だけでも変えたい。それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる」と言い出した。96条の先行改正ならぬ、一文字先行改正ということらしい。

 これに対し安倍首相は「文学者である石原先生らしい指摘」「中学時代に丸暗記させられたが、すっと入らなかったことを思い出した」などと同調。「一字であっても変えるには憲法改正が伴う。『に』の一字だが、どうか『忍』の一字で…」と冗談まじりに答え、あたかも憲法改正のハードルが高すぎると言わんばかりの言い草で議員たちの笑いをとっていた。

 しかし、あの石原慎太郎が日本語の間違いを指摘とは、「お前が言うな!」と失笑した文壇関係者も少なくなかっただろう。というのも、文壇では石原の文章は悪文として有名で、それこそ「“てにをは”の使い方がおかしい」「日本語がヘン」といわれているからだ。

 たとえば、弟・石原裕次郎の思い出について書き下ろした『弟』(幻冬舎/1996年)。100万部を超える大ベストセラーとなった『弟』だが、書評などでも数カ所にわたって日本語の間違いを指摘されているのだ。

 いくつか例をあげてみよう。 

〈弟という男がいったいその芯の芯に何を備えていたのかを知れずにいたといえる〉
「知れずに」は、「知らずに」か「知ることができずに」ではないだろうか。「人知れず」とでも混同してしまったのか。

〈帰りは支流の分岐点までのべつなく船を引き摺って歩いた〉
「のべつなく」という言葉はなく、「のべつまくなし」あるいは「のべつ」のまちがいでは。と思っていたら、現在の文庫版では「のべつ」に修正してあった。

〈母が手にした白い琺瑯引きの洗面器に溢れるほど、たった今医者が瀉血した血がたわわに揺れていた〉
「たわわ」というのは、実の重さなどで木の枝や棒がしなっている様子に使うのが一般的だが、まるで実のように血がいっぱいだったということだろうか。

〈私には、弟のやがての相手の方が弟らしくも見えたし〉
 裕次郎がはじめて家に連れてきた恋人が意外とふつうの女の子で「らしくない」と思ったというくだりなので、「やがての相手」というのは「やがて出会う相手」「やがて結ばれる相手」という意味なのだろう。しかし「やがて」は副詞なので、後ろに「の」をつけるこの表現は一般的とはいえない。

〈それに拍車をかけたのが、学生ながらの弟の放蕩だった〉 
「学生ながらの」。言いたいことはわかるが、「ながら」の後はふつう「の」でなく「に」ではないだろうか。

『弟』が、国会議員を辞職し25年ぶりに書き下ろした長編だったから、筆が衰えていたというわけではない。慎太郎はデビュー当時から、その悪文ぶりを、ほうぼうから指摘されているのだ。
 
 たとえば初期の短編「奪われぬもの」にはこんな表現がある。

〈少なくとも試合の中の行為に彼はいかなる些細な意味合いも持たしたことがあっただろうか〉

〈そして行為が結果と言う形でいかなる意味を持つかは、果して彼自身にも本当に理解できるところではない〉

 一読しただけでは、意味が“すっと入ってこない”のではないだろうか。当時東京新聞の匿名コラム「大波小波」は、この石原の文章について「変な言葉遣い」とし「一体に近ごろの若い作家の文章を見ると、係り結びが崩れてきているようだ」と批判している。

 三島由紀夫も慎太郎の悪文をたびたび指摘しているひとりだ。石原の最初の純文学長編「亀裂」について当時の「新潮」でこんなことを書いている。

〈女から離れると何か骨のシンから出て来たような口をすぼめる一人笑いで明は歩いた〉
 という一文について、「『骨のシンから出て来たような口』とはいかなる口かと思い惑ふが、「骨のシンから出て来たような」は、実は「一人笑い」にかかるのである。句読点なしで出まかせに続けられるこんな無秩序な語序、品詞の破天荒な排列」──。

 いかに慎太郎の文法がデタラメであるか、事細かに指摘しているのだ。しかし三島は決して慎太郎の文学そのものを批判しているわけではなく、この悪文ゆえにギリギリのところで通俗性から逃れていると褒めているのである。

 三島は自身の文章論について書いた『文章読本』のなかでも、『源氏物語』や井原西鶴、横光利一の作品と並んで、慎太郎の「亀裂」を文章の見本として引用し、以下のように評している。

〈ここでは、日本語はいったん完全に解体されて、語順も文法もばらばらにされて、不思議なグロテスクな組み合わせによって、異常な効果を出しています。〉

 文章のうまさ、読みやすさが、必ずしも文学的価値と比例するわけではない。石原慎太郎は悪文ではあるが、それが石原の小説に“異常な効果”をもたらす美点でもある、というのが三島の石原評だ。(そして、今日も石原文学を評価する数少ない評論家も同じような意見だろう)

 しかし、石原自身にはおそらく悪文の自覚はないと思われる。石原が自分の日本語力を棚に上げて他人の日本語の細かい表現をあげつらうのは、憲法前文だけではない。芥川賞の選考委員をしていたときも、候補作について「日本語がなってない」などとしょっちゅう批判し、豊崎由美、大森望のメッタ斬りコンビから「お前が言うな!」と突っ込まれていた。

 ふつうは使わない表現でも、一見まちがって見える日本語でも、その表現でしか伝えられないものがあったり、それが作品の個性になったりする。そういう繊細さを慎太郎はわかっていない。だから「とりあえず助詞の一字だけでも変えたい」というようなことが言えるのだ。

 たった一文字でも変われば、意味が変わることもある。たとえば9条の「国の交戦権は、これを認めない。」を「これを認める。」に変えても、文字数にすればたった二文字だが、まったく逆の意味だ。それを「とりあえず一文字だけでもいいから」とは、およそ文学者の言葉とは思えない。

 そして「中学時代に丸暗記させられたが、すっと入らなかったことを思い出した」などと自分の記憶力と文学的教養のなさを、憲法のせいにする安倍首相。

 こんな人たちに、一文字たりとも憲法改正などされたくないものである。
(酒井まど)

最終更新:2015.01.19 04:41

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