又吉直樹が「自分の小説の批評」について不満を吐露…メディアは「又吉タブー」に負けず『劇場』を批評できるのか?

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『劇場』(新潮社)

 第153回芥川賞受賞作『火花』(文藝春秋)以来、初となる又吉直樹の長編小説『劇場』(新潮社)が、5月刊行された。「新潮」(新潮社)2017年4月号に掲載された際も、普段の「新潮」の刷り部数の4倍となる4万部で発行したものの売り切れ店続出で緊急重版がかかるなど大きな注目を集め、満を持しての第二作出版だ。『火花』は各方面から大絶賛だったが、『劇場』も評価は高い。

 しかし、これだけ絶賛されていても、又吉自身は批判的な批評が気になってしかたがないらしい。3月に発売されたムック本『文藝芸人』(文藝春秋)に掲載されたインタビューでのこと。そのなかで又吉はこのように語っている。

「文学の世界でも、「火花」は様々なかたちで批評されました。批評がないと作品やジャンルの向上がないという面もありますから、あっていいんやと思います。
 でも、前向きなものと前向きじゃないものがありますよね。「ちょっとこれ、恥かかそうとしてるやん」とか、「なめてるやん」という。言い方ひとつでもあります。そういうものに対してムキになってもしょうがないですし、気にせんとこうと。厳しい批判であっても「なるほど」と思うものはありました。そういうものはちゃんと吸収しようと思いました」

 文学でもお笑いでも音楽でも映画でも漫画でも演劇でも、表現に批評は必要不可欠なものだが、又吉は「批評はあっていい」「なるほどと思うものはあった」と言いつつ、「前向きなものと前向きじゃないものがある」という。やはり批判にはかなり腹を立てていたようだ。

 文学について語った新書『夜を乗り越える』(小学館)のなかでも、作家から自分の作品を批判されたときのことをこう振り返っている。

〈自分でも嫌なんですけど作家の方に自分の作品を批判されて納得いかない時って、すごく不安になるんです。「こんだけ言うってことは、この作家の作品とんでもなくおもしろいんちゃうか」と思うんです。それで、気になって仕方ないから大概は恐る恐る緊張しながら読んでみるんです。そしたらね、全然おもしくろくないんです。「小説はこうでないといけない。その条件を満たしていない」と言われたとしたら、その条件をアンタは満たしてるんやろな? という変な読み方になってしまうんです。そしたらね、全然満たしてないんです。「お前の作品に新しいところなんて一切ない」とか、「派手にスベっとんのう」とか、「こんくらいのタコが偉そうにはしゃいでくれたのう」とか下品なことを考えてしまうんです。自分でも驚きましたよ。自分が怖かったです。ほとんど悪魔やんと思いました〉

 思えば、又吉の作品には、「クリエイターと批評」を題材としたシーンがよく出てくる。たとえば、『火花』では、漫才師の主人公の師匠にあたる神谷が「新しい表現や発想を認めたがらない鬱陶しい年寄りの批評家が多いジャンルは衰退する」といった内容の演説をぶつシーンがあり、『劇場』でも、劇作家の主人公が公演後の打ち上げで脚本の内容について議論を吹っかけてきた知らないおじさんに皮肉を浴びせかけるシーンがある。もちろん、これらは作中の登場人物の行動であり、それが又吉本人の考えとイコールではないのだろうが、お笑いでも小説でも、ピントのずれた(と本人は感じている)批評に怒りを覚える機会が多いことと、こういったシーンが彼の作品には頻出することは無関係ではないだろう。

 しかし、又吉の作品がいつそんなひどい批評に晒されているというのか? むしろ逆だろう。アマゾンのレビューやSNSは別にして、マスコミでは又吉に対する批判を許さない、いわゆる「又吉タブー」のようなものが出来つつある。

 純文学の世界において、売り上げでいえば村上春樹との二枚看板の座に上り詰めるまでブレイクした又吉のもとには、ひっきりなしに小説、エッセイ、インタビューの依頼が舞い込み、彼のもとには編集者が列をなしている状態だ。そうなると、週刊誌はスキャンダルどころかちょっとした悪口も書くことはできない。実際、芸能人のスキャンダル記事が毎号のように賑わう週刊誌だが、又吉の芥川賞受賞以降、彼の美談しか掲載されていないのだ。

 また、こうした作家タブーという構造的な問題とは別に、又吉本人だけではなく、作品に対しても“悪く言ってはいけない”という空気が流れている。

 というのも、又吉自身の本が売れるのはもちろん、読書家の又吉はほかの小説作品もテレビや雑誌などで積極的に推薦、出版界にとってはスポークスマンの役割も進んで果たしてくれる、非常にありがたい存在となっている。たとえば、芥川賞ノミネート直前に出演した『アメトーーク!』(テレビ朝日)で又吉は、中村文則の『教団X』(集英社)を紹介。ライト層にはハードルの高い純文学にもかかわらず、『教団X』はバカ売れした。

 そんな空気がつくりだした象徴的な事件が『報道ステーション』(テレビ朝日系)で古舘伊知郎の発言が炎上した件だ。古館は番組内で『火花』を取り上げこのように発言した。

「すごいなとは思うんですけど、それとは別に芥川賞と本屋大賞の区分けがなくなった気がするんですけどね」
「芥川賞と明らかに、時代が違うといえばあれですけど、僕なんかの年代はあれ?って気もちょっとするんですけどね」

 すると、古館のこの発言に対し、ネットでは放送直後「芥川賞に対しても、本屋大賞に対しても失礼」「なんで素直におめでとうと言えないのか」「どうせ読まずに言ってるんだろ」などと非難が殺到したのだ。

 古舘の発言は売れ線の作家が受賞したときによく言われる定番的なもので、安易ではあるが目くじらをたてるようなものでもない。又吉に関しては、こんな程度のコメントすら炎上してしまうのだ。

 こうした風潮は文学というジャンルにとって決してプラスにはならない。せっかく多様な読み方ができるテキストが登場したのに、文学的価値についての議論を排除してしまえば、結局、ビジネス的、風俗的紹介しかできなくなる。それは、結局、作家にとっても、作品の深化、表現の進化を妨げる結果になってしまうだろう。

 実は、又吉自身も「文學界」17年3月号(文藝春秋)の『火花』騒動を振り返るインタビューでこのように話していた。

「「芸人が小説を書いた」というところはすごく取り上げていただいたんですけど、文学の世界に貢献できひんかったなっていうのは一つあるんです。ミーハーな取り扱われ方であっても、それによって本を買ってくれた人もおるし、面白い本やったと思うてくれた人もおるやろうから、そういう扱われ方が嫌やったということではないんです。でも、僕がこれまでどんな本を読んできたかということよりも、まずは「神谷みたいなやつってどうなん?」とか「徳永は神谷のこと本当はどう思ってるのかな?」とか、そういう話になると思ってたんですよね。そういう声は一切聞こえてこなかった。お笑いの賞レースやと、「優勝はあの人やったけど、今回の大会の中ではあのボケが一番面白かった」とか「笑い飯さんの両方ボケて両方ツッコむスタイルが斬新だった」とか、そういう話になりますけど、「火花」はそうならなかった」

 しかし、『火花』の批評がこのようになってしまった背景には、たとえ『火花』の内容を批判的に扱いたかったとしても、そのような文章を書くことができない「又吉タブー」の存在があるのは間違いない。

 大物作家の批判がタブー化するのは昔から連綿と続いてきた文壇の体質だが、しかし、今は、以前とは比べ物にならないくらいに、文芸批評も文学をめぐる議論も衰退している。そのうえ、又吉自身がかつての大物作家のようにふるまい、冒頭のインタビューのような「前向きな批評と前向きじゃない批評」を峻別するような態度をとれば、この文学の貧困に一層、拍車がかかることになるだろう。又吉にはそのことをぜひ、自覚してほしいと思う。

最終更新:2017.12.04 04:22

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