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安倍首相が“明治復活”旗印にする『坂の上の雲』、作者の司馬遼太郎が「軍国主義を煽る」と封印の遺言を遺していた
司馬遼太郎『坂の上の雲』(文藝春秋)
11月3日の「文化の日」を「明治の日」にしようという気持ち悪い動きがある。
きのう11日にも「「明治の日」を実現する集い」なるイベントが開催され、日本会議会長の田久保忠衛が基調講演を行った。「取り戻せ!明治の精神」というキャッチフレーズのもと、協賛には極右カルト「日本会議」はもちろんのこと、ヘイト団体である「頑張れ日本!全国行動委員会」、「新しい歴史教科書をつくる会」、「神道政治連盟東京本部」、「東京都神社庁」、「日本教育再生機構」など右派団体が名を連ね、稲田朋美政調会長もかけつけたという。
現在「文化の日」とされている11月3日が、明治天皇の誕生日でもあり戦中は「明治節」とされていたことから、この日を再び「明治の日」とし、「厳しい国際環境の中で国家の独立を護り抜いた明治の先人たちに思いを馳せ」よう(明治の日推進協議会ブログより)というのである。
数々の侵略戦争によって多くの国の人間の命と自由を奪い、日本自体も滅亡の危機に追い込んだ「大日本帝国」を取り戻したい、とは正気の沙汰とは思えないが、こうした明治日本への憧憬、回帰願望は単なる懐古趣味と笑っていられる状況ではない。
たとえば、今年7月「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録へのゴリ押しだ。安倍首相は幼なじみでもある発起人の女性に「君がやろうとしていることは『坂の上の雲』だな。これは、俺がやらせてあげる」と語るなど、この登録には安倍首相の強い意向が働いていた。その背景に、明治日本の近代化を誇り大日本帝国の植民地主義の正当化をアピールしようという意図があったのは明らかだ。
また、今年8月15日の安倍談話のなかで、明治の日本と日露戦争について、安倍首相は以下のように語った。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」
明治日本の植民地主義を正当化し日露戦争を良い戦争だったと真顔で語る、この安倍首相の歴史観はつくる会の歴史教科書そのままなのだが、この歴史観のベースにあるとされるのが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』だ。
『坂の上の雲』といえば、『竜馬がゆく』とならぶ司馬遼太郎の代表作で、明治の軍人・秋山好古、秋山真之の兄弟と俳人・正岡子規の3人を主人公に、日露戦争へといたる明治日本を描いた歴史小説である。
明治日本の近代化、そしてその結実として日露戦争を肯定的に描いていることから、愛読書にあげる保守政治家や右派論客は多い。
たとえば、「「坂の上の雲」日本人の奇跡」(文藝春秋/2010年12月臨時増刊号)という『坂の上の雲』をテーマとしたムックには、安倍晋三をはじめ、石破茂、櫻井よしこ、中西輝政、葛西敬之といった右派の面々がこぞって寄稿している。
「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝にいたっては、『坂の上の雲』をきっかけに“自由主義史観”なるトンデモ歴史観をもつようになったというのは有名な話だ。西尾幹二の『国民の歴史』でも日露戦争を自衛の戦争とし、「司馬遼太郎氏は、日露戦争の原因は基本的には六対四の割合でロシアに責任があり、そのうち八割ぐらいはニコライ二世という皇帝の性格に原因があると言っていた」などと司馬の名前を持ち出す。
安倍首相も、先述のように明治の産業革命遺産の世界遺産登録を『坂の上の雲』と呼んだり、facebookで「「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている」司馬遼太郎作「坂の上の雲」の冒頭です。テレビドラマ化されご存知の方も多いと思いますが、その小説の舞台でもある愛媛県は松山市にやって参りました」などと得意気に『坂の上の雲』の一節を引くこともあった。
安倍首相はじめ右派の政治家や論客たちが、強い日本=明治への憧憬を口にするとき心の拠り所としている、『坂の上の雲』だが、しかし、実は、当の司馬遼太郎は生前『坂の上の雲』が、右派の拠り所となることを危険視していたというのである。
映画プロデューサー・山本又一朗氏が『文學界』(文藝春秋)11月号のインタビューで、挫折した企画でいちばん思い出に残っている作品として『坂の上の雲』をあげ、司馬に映画化権の獲得交渉に出向いたエピソードを披露している。
アポなしで大阪に行き「1週間や10日ぐらいだったらお待ちしますから、ぜひお時間をください」という山本氏の熱意に押されたのか、司馬は山本氏を自宅に招き入れた。当初30分という約束だったのが「3時間40分もの大論争」になったという。
というのも、司馬が映像化を強く拒否したからだ。
「山本さん、私はミリタリズムだとかナショナリズムというのは賛成できないんですよ。人は住民の単位で生きていけばいいと思っています」
「線を引いてここからが自分の土地、向こうがあちらの国、その結果、奪い合いをしてどっちが得したとか損したとか、そのために兵をあげてどうするとか、そういう話はストーリーだから書きますけど、それを映画なんていうものにされたら、影響力が大き過ぎて、いろんな人がそういうものに血気盛んになられても困るんです」
こうした司馬の言葉に説得力を感じながらも山本氏は、現代の若者は生きる目的さえなくしている。『坂の上の雲』の時代は一個人が天下国家を動かせた、一個人が重要だった時代だ。だから「現代の若者に、おまえひとりで国が変わるんだよ、己の力をちゃんと見つめ直せ、と言いたいんです」と、国ではなく個人を描きたいのだと食い下がる。
この山本の切り返しに司馬は「口の立つ方ですな」と感心するが、それでも司馬の意志はかたく、「山本さん、お願いです。他にもいっぱい書いた小説がありますから、他のものに目を移してください。『坂の上の雲』は一切やらせるわけにはいかない。ノーです」とキッパリ断られたという。
単に山本が断られただけ、断るための方便と思われる向きもあるかもしれないが、映像化を断られたのは、山本だけではない。
司馬自身、たとえば『「昭和」という国家』(日本放送出版協会)のなかで、
「この作品はなるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されえたくない作品でもあります。
うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓舞しているように誤解されたりする恐れがありますからね。
私自身が誤解されるのはいいのですが、その誤解が弊害をもたらすかもしれないと考え、非常に用心しながら書いたものです」
としている。
実際、山本だけでなく、NHKも司馬の生前『坂の上の雲』を映像化しようとして断られている。
『NHKスペシャル』を立ち上げるなどした元NHK教養部のプロデューサーの北山章之助氏が、『手掘り司馬遼太郎 その作品世界と視覚』(NHK出版)のなかで、NHKで過去に2度『坂の上の雲』の映像化許諾を依頼しいずれも司馬に断られたことを明かしている。
北山氏自身は教養番組担当でドラマとは関係なかったが、司馬と関係が深かったことから、放送局長、会長直々の指示で、映像化交渉のために司馬のもとを訪れたという。二度目はNHK会長からのたっての依頼ということもあり、司馬はわざわざ断りの手紙をしたためた。
「その後、考えました。
やはりやめることにします。
“翻訳者”が信頼すべき人々ということはわかっていますが、初めに決意したことを貫きます。
『坂の上の雲』を書きつつ、これは文章でこそ表現可能で、他の芸術に“翻訳”されることは不可能だ(というより危険である)と思い、小生の死後もそのようなことがないようにと遺言を書くつもりでした。(いまもそう思っています)
小生は『坂の上の雲』を書くために戦後生きたのだという思いがあります。日本人とはなにか、あるいは明治とはなにか、さらには江戸時代とはなにかということです。
バルチック艦隊の旗艦「スワロフ」が沈んだときから、日本は変質します。
山伏が、刃物の上を素足でわたるような気持で書いたのです。気をぬけば、足のうらが裂けます。
単行本にしたときも、各巻ごと、あとがきをつけてバランスをとりました。
たしかにソ連は消滅し、日本の左翼、右翼は、方途を見うしなっています。状況がかわったのだということもいえます。
が、日本人がいるかぎり、山伏の刃渡りにはかわりません。日本人というのは、すばらしい民族ですが、おそろしい民族(いっせい傾斜すれば)でもあります。
『坂の上の雲』は活字にのみとどめておきたいと思います。
以上、このことについては議論なし、ということにして」
『坂の上の雲』の映像化は危険、小生の死後もそういうことのないように――。「明治の精神」をやたら賞揚していたイメージのある司馬だが、さすがにそれを現実世界に持ち込むことの危険性は認識していたようだ。いっせいに傾斜したときの日本人は恐ろしいというのも、先の戦争を知る人間だからこその強い危機感なのかもしれない。
しかし残念ながら、司馬のこの強い決意はあっさり破られることになる。ご記憶の読者も多いと思うが、2009年NHKでドラマ化されたのだ。司馬が『坂の上の雲』映像化を拒否していることは、司馬ファンのあいだでは知られたことだったため、司馬の意志に背くドラマ化であるとして市民団体がNHKに質問状を送るなどの動きもあった。
司馬本人は1996年に亡くなっているため著作権継承者であるみどり夫人が許諾したということだろうが、みどり夫人の弟で司馬遼太郎記念館の館長を務める上村洋行氏は映像化を許諾した理由について、「NHKの熱意」「(執筆当時の昭和40年代と比べて)技術力が大きく進歩」「原作者と同じ時代の空気を共有するスタッフが手がけるということ」(『スペシャルドラマ・坂の上の雲・第1部』より)などと語っている。しかし、いずれの理由も生前の司馬が抱いていた懸念を払拭するようなものでは全くない。それどころか、技術力など司馬の懸念とは何の関係もないし、技術が進歩してより迫力ある映像となると、むしろ危険度は増すではないか。
何より、時代状況だ。前述の上村氏のインタビューによると、NHKが遺族と交渉し映像化権を取得したのは2000年前後のこと。つくる会による歴史修正運動、小林よしのり『戦争論』、小渕政権による国旗国歌法や盗聴法の成立……と現在にいたる右傾化の道を大きく踏み出した時期だ。さらにドラマが放映された09年から11年は在特会などネトウヨによる排外主義、ヘイト活動が大きく盛り上がっていった時期。かつて「もう右翼も、左翼もない」「国でなく個人を描く」という説得にも首を縦にふらなかった司馬がもし生きていたとすれば、はたしてこんな時代状況のなかで映像化を許可したただろうか。
「線を引いてここからが自分の土地、向こうがあちらの国、その結果、奪い合いをしてどっちが得したとか損したとか、そのために兵をあげてどうするとか、そういうものに血気盛んになられても困るんです」
こうした司馬の警鐘もむなしく、現在、戦後民主主義を否定し明治が日本の理想かのような思想がはびこっている。安倍首相は、強かった明治日本という幻想を現実政治に持ち込み、日本を再び戦争のできる国に変え、教育勅語まがいの道徳教育を押しつけ、さらには大日本帝国憲法を彷彿とさせる憲法改正を目論む……。明治の日本を取り戻すべく着々と歩を進める、安倍首相。「俺のやろうとしていることは、『坂の上の雲』だ」とでも思っているのだろうか。
自身の作品が最も怖れていた方向、ナショナリズムとミリタリズムの旗印とされているこの状況に、司馬は草葉の陰で何を思うのか。
(酒井まど)
最終更新:2015.11.14 12:44
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