柴山昌彦文科相「教育勅語」復活は安倍政権の総意! 前川元次官も証言していた「教育勅語を使えるようにしろ」の圧力

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しばやま昌彦公式ホームページより

 閣僚が“ほぼ全員ネトウヨ”である第4次安倍改造内閣だが、さっそく、その極右思想が露見した。文部科学大臣に起用された柴山昌彦衆院議員だ。柴山文科相は2日の就任記者会見で、戦前・戦中の教育勅語についてこう述べたのである。

「(教育勅語を)アレンジしたかたちでですね、今のたとえば道徳等に使うことができる分野というのは、私は十分にある、という意味では普遍性を持っている部分が見て取れる」

 さらに柴山文科相は、教育勅語の使える部分として「同胞を大切にするとか」などを挙げ、「基本的な記載内容について現代的にアレンジして教えていこうと検討する動きがあると聞いており、検討に値する」などと明言した。教育行政のトップとなった人間が、それも就任会見で「同胞を大切に」と排外主義をむき出しにしながら、ここまで具体的に“教育勅語の復活”を唱えるとは、あまりにも露骨すぎるだろう。

 もっとも、こうした発言は唐突に飛び出したわけではい。これまでも下村博文元文科相や稲田朋美元防衛相、そして安倍首相自身が教育勅語を肯定する発言をしており、昨年3月31日には教育勅語を学校教育で扱うことに対して「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定している。

 記憶に新しいところでは、森友学園が経営する幼稚園で幼児たちに暗唱させていたことで、近年、再び脚光を浴びている教育勅語。しかし、同時に安倍自民党の政治家やネトウヨ界隈、あるいは小籔千豊など一部の芸能人までもが「教育勅語の何が悪い!」「いいこともたくさん書いてあるじゃないか!」なる大合唱を展開したこともあって、政権の目論見通りに社会的抵抗感が薄まっていることもまた確かだろう。

 であれば本サイトとしては、何度でも、教育勅語の“本質”が危険な軍国主義的イデオロギーそのものであることを確認しておかねばなるまい。

 そもそも教育勅語は、明治時代の1890(明治23)年に発布された。その第一の目的は国民を「臣民」と位置付ける教育の根底とし、皇国史観を植えつけることだったが、特筆すべきは、明治天皇の名の下に発布されたこの言葉が、天皇のために命を投げ出すことを子どもたちに教え込むものだったという事実だ。

 冒頭を読めば明らかだろう。教育勅語は〈朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ〉と始まるが、これは「皇室の先祖が国を始めたのは遠い昔のことで、徳を積み上げてきた」という意味で、皇室による支配の正当性が謳われている。そして、続く〈我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス〉は、「億兆の国民が心を一つにして、代々その美徳を行ってきたこと、これが国体の精華であり、教育の淵源もここにある」という意味で、日本は天皇を中心とした国であるとの宣言である。

 この時点で、天照大御神の神話を基とする皇国史観丸出しだが、教育勅語はそこから「12の徳目」などといわれる“教え”を列挙する。「親孝行せよ」とか「夫婦は違いに仲睦まじくせよ」「憲法と法律に従え」などといった内容で、政権周辺の極右政治家たちや極右文化人らはこうした部分を切り取って、「やっぱり教育勅語はいいことを言ってるじゃないか!」「当たり前のことを言って何が悪い」と主張するのが定番のパターンになっている。

 しかし、そんな詐術に騙されてはいけない。そもそも親孝行とか夫婦仲良くとか「当たり前のこと」を言いたいなら、別に教育勅語を持ちだす必要もないだろう。

 連中がわざわざ「教育勅語」を持ちだすのは、そこにはっきりとした目的があるからだ。

教育勅語の中核は「臣民は国家・天皇のために命を投げ出せ」という命令

 その目的は、徳目の最後に書いてある。12番目の徳目として〈一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ〉と言う言葉が掲げられ、〈以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ〉と続く部分だ。これは「ひとたび皇国に危機が迫ったならば、忠誠心を発揮してその身命を捧げよ」「それによって永遠に続く天皇の勢威を支えよ」という意味。すなわち、明確に「臣民は国家・天皇のために命を投げ出せ」と言っているのである。

 しかも、〈以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ〉の「以テ」は、12の徳目すべてにかかっている。つまり、「親孝行」や「夫婦仲良く」ということも、すべては「永遠たる天皇の勢威を支える」という目的のためにあることを、教育勅語じたいが宣言しているのだ。

 これは、大日本帝国憲法(明治憲法)下において、元首たる天皇だけが〈統治権ヲ総攬〉する者であり、臣民の諸権利は天皇から与えられるというかたちをとっていることから当然の帰結だ(念のため付記しておくと、帝国憲法をめぐっては天皇主権説と天皇機関説の学説が対立したが、1935(昭和10)年に天皇機関説が排撃され、天皇主権説のもとで軍国主義がますます進行していった)。

 しかも、教育勅語はこのあと「このような心構え、行動が天皇の忠実な臣民であることを証明するだけでなく、祖先の伝統をあわらしている」というふうに続く。このことからも明らかなように、「12の徳目」は極右政治家が説明しているような「現代にも通じるよい言葉を並べた」ものでは決してない。徳目を含めた教育勅語全体が、天皇を崇拝させることで市民を無謀な戦争に駆り立てた軍国主義思想の根幹、そのものなのである。

 実際、教育勅語が国民に天皇と国家のために身を捧げる教育を目的にしていたことは、その発布までの経緯を見ても明らかだ。

 旗振り役は、明治政府の軍事拡大路線を指揮した日本軍閥の祖で、治安警察法などの国民弾圧体制を確立した、時の内閣総理大臣・山縣有朋だった。山縣は、自由民権運動を潰し、天皇と国家神道支配の強化、富国強兵と中央集権体制の確立のため、自分の息のかかった地方長官会議に建議させ、井上毅内閣法制局長官や儒学者の元田永孚らに命じて、この教育勅語をつくらせた。

教育勅語暗唱は子どもに暗唱させて体に叩き込む“洗脳教育”

 もちろん、徳目の「親孝行」「夫婦仲良く」なども、あくまで家父長制と男尊女卑の明治憲法下のもの、つまり、女性の人権を認めず、家長である男性に家族全員が従うことを前提としたものだった。そういった家族や日常生活での道徳を説くことで、その延長線上にある「日本全体をひとつの家族とみなしたときの家父長である天皇」に従わせる構造をつくりだしたのが教育勅語だったのだ。繰り返すが、ここで大事にしろと言われている「道徳」や「家族」は、紛れもなく、個人の国家への奉仕を強制するためのツールに他ならなかったわけだ。

 実際にその後、教育勅語は、天皇の神格化と国家主義の基盤となっていった。各学校は天皇の御真影とともに教育勅語の写しを奉納する奉安殿と呼ばれる聖殿のような建物を建て、生徒には最敬礼を義務付けた。そして、森友学園の幼稚園の園児たちと同じように全文暗唱を強制した。

 さらに言えば、教育勅語は小さい子どもに暗唱させて体に叩き込むことをあらかじめ意図してつくられていた。実際、草案のひとつは内容の問題だけでなく長すぎて暗唱に向かないとの理由で廃案にされている。教育勅語が簡潔にしてわかりやすい内容にされたのは、丸覚え、暗唱という“洗脳教育”と切り離せるものではない。

 先の戦争を引き起こしたのも、教育勅語を神聖なものとして子どもたちに叩き込み続けたことが大きく影響している。満州事変が起き、あの泥沼の戦争に突入していくのは、勅語発布の1890年に小学校1年生だった第一世代が40代となり、彼らを親とする第二世代が成人したくらいの時期。この頃には、教育勅語による洗脳教育が完成され、日露戦争の頃にはまだ存在していた反戦の声をあげるような者もほとんどいなくなっていった。

 そして、日本は無謀な戦争に突入。教育勅語の神格化はさらにエスカレートし、軍国主義の支柱となって、国家総動員法や特攻隊を正当化する神聖な教典のような存在になっていった。

 そういう意味では、教育勅語はまぎれもなく、日本国民とアジアの人々を不幸におとしいれたあの狂気の戦争を生み出した元凶のひとつだった。だからこそ、敗戦後、教育勅語はGHQから神聖的な取り扱いを禁止されただけでなく、日本の国会も反省に立ってその排除・失効を自ら決議したのである。

安倍政権下で復活をとげた教育勅語、学校教育への使用を解禁

 しかし、戦後も教育勅語は、明治憲法の復元や皇室の権復を狙う「右翼」(国家主義者や民族主義者ら狭義の「右翼」のことであって、いわゆる「戦後保守」のことではない)や神道関係者、宗教者らを中心に脈々と引き継がれながら、今日に至った。一方で、戦後日本政治の文脈において、この教育勅語をもっとも国粋主義的な支配構造の再現に利用せんとし、表舞台に引きずり出したのは、やはり、安倍政権をおいてないだろう。

 そもそも、戦後の政権は学校教育における教育勅語の使用を否定してきた。それが様変わりしたのが、第二次安倍政権の2014年4月8日、参院文教科学委員会でのことだ。当時、みんなの党所属の参院議員だった和田政宗がこう質問した。

「私は、教育勅語について、学校、教育現場で活用すればとても良い道徳教育になると思いますが、米国占領下の昭和二十三年に国会で排除決議や失効確認決議がなされています。こうした決議は関係なく、副読本や学校現場で活用できると考えますが、その見解でよろしいでしょうか」

 これに対し、当時の文科省・初等中等教育局長は「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切である」と従来の見解を維持しながらも、それとは矛盾するこんな答弁を続けた。

「教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれておりまして、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられるというふうに考えております」

 それ以降、国会では教育勅語について「今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」「内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えない」との政府側答弁が踏襲されていき、前述のとおり、昨年3月には「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書が閣議決定されたわけだが、実は、この2014年4月8日の答弁をした初等中等教育長というのは、あの前川喜平・元文科事務次官だった。

 周知の通り、前川氏は現在、さまざまなメディアで、教育勅語を学校教育で使用することに極めて否定的な見解を示している。たとえば、本サイトでの室井佑月との対談のなかでも、教育勅語に関連してこのように述べていた。

「親学は“家族が社会の単位”という考え方です。個人であることよりも家族の一員、一族の一員であることが大事だという。この家族主義的考え方は、じつは、戦前の国体思想でもある。戦前の教育勅語で示されている考え方です。そして、そのベースには家父長制の家制度があった。そこでは親孝行こそ最大の美徳になる。家族なんだからという理屈ですべてを吸収してしまう。そして日本国は、大きな一つの家族だ。その本家の本家の総本家が天皇家で、辿れば天照大御神。すべての国民は天照大御神の子孫であり、天皇家の分家の分家の分家だ、みたいなね。こうして『孝』と『忠』が一本につながる。こういう家族国家観に基づく教育が安倍さんが進めたい道徳教育なんだろうと思います」

 そんな前川氏が、どうして、条件付きであったとしても教育勅語の学校教育での活用を認めるような国会答弁をしたのか。

前川元次官が証言!「教育勅語は適切でない」答弁を下村文科相が書き直し命令

 背景には、安倍政権の直接的な介入があった。実は、このとき、前川氏の局長答弁は下村文科相によって変更を余儀なくされたというのだ。

 前川氏自身が昨年、ある講演会のなかで「加計学園問題よりも私が抵抗できなかったもっと大きな問題は、教育の右傾化といいますか国家主義化の動きを十分に止められていない。こっちのほうがもっと大きい責任を感じているんです」と告白したうえで、一例として“教育勅語答弁”をこう回想している。

「たとえば、こういうことがありました。教育勅語について、明日の委員会で質問がある。どういう質問かというと『教育勅語は学校の教材として使うべきだと思うがいかがか』と。それを局長に訊くというので──私がその局長なんですけど──私の答弁は従来の文部科学省のラインで、教育勅語は戦後、排除・無効確認の決議が行われていて、これを教育の理念として使うことはできません、と。そして、学校の教材として使うことについても適切ではないと(いう答弁を予定していた)。こういう答弁で(文科省は)ずっときているわけです、70年間」

 ところが、委員会当日の朝、直前の大臣へのレクの際、前川氏は下村文科相から直接、教材としての使用を認めるよう書き直しを命じられたという。

「委員会がある日は朝、大臣と一緒に、こういう質問がありますからこういう答弁にしましょうという“答弁レク”っていうのをするんですね。その朝の答弁のレクのときに大臣がですね──普通は大臣の答弁だけ説明するんですが──この質問についてだけは局長答弁も見せろと言われて。『こうなってます』と見せたら『これじゃダメだ』と言われたわけです。答弁の最後に『教育勅語のなかにも普遍的に通用することが書いてあるので、この点に着目して学校の教材として使用することは差し支えない』と書き直せと言われたんです」

 前川氏は「明らかに違法や違憲でない限りは、組織の上司である大臣の命令に従わないわけにはいかなった」と振り返るが、それでも、答弁に立った際は躊躇して「『差し支えない』ということはどうしても私の口からは出てこなかった」。実際、当時の国会では、前川局長答弁が終わると下村文科相自らがわざわざ手を挙げて答弁。局長答弁にはなかった「教材として使う」ことについて駄目押しを図るために「差し支えない」と明言した。

「その内容そのもの、教育勅語の中身そのものについては今日でも通用する普遍的なものがあるわけでございまして、この点に着目して学校で教材として使う、教育勅語そのものではなくて、その中の中身ですね、それは差し支えないことであるというふうに思います」(下村文科相、国会議事録より)

 もうお分かりだろう。今回の柴山文科相による「(教育勅語を)道徳等に使うことができる分野は十分にある」「現代的にアレンジして教えていくことは検討に値する」との発言は、安倍政権が主導する極右国家主義教育の政治的な動きのなかで出てきたものなのである。

 だいたい、柴山文科相が言うように「アレンジ」せねばならないシロモノならば、学校教育で使う正当な理由などハナから存在しない。ようは、政権が求めているのは「徳目」の内容ではなく、戦前に教育勅語が果たした国民支配の「機能」のほうにこそある。そのことを、この新文科大臣は言外に暴露しているのだ。

 いずれにせよ、近い将来、安倍首相が教育勅語的な極右教育の復活のギアを、さらに一段階あげてゆくのは火を見るより明らかだ。何度でも言う。教育勅語は、天皇を頂点とするイデオロギーの強力な洗脳装置として、無辜の市民を破滅的戦争へと狩り出し、殺し、殺させた。その事実を、ゆめゆめ忘れてはならない。

最終更新:2018.10.04 06:59

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