浅野忠信と二階堂ふみの『私の男』に林真理子が「薄汚い父娘」と酷評

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映画『私の男』公式サイトより


 映画『私の男』の評判がいい。モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞。主演の浅野忠信も最優秀主演男優賞を受賞した。震災で家族を失った少女と、引き取った遠縁の男の近親相姦を描いた問題作で、受賞した浅野はもちろん、少女役の二階堂ふみも、その演技を絶賛されている。二階堂が18歳になるのを待って撮影したといわれる、激しい濡れ場も話題だ。

 ところが、先日、二階堂ふみ、浅野忠信、熊切和嘉監督らによる受賞記念の舞台挨拶でちょっとしたハプニングが起きた。観客からの質疑応答で、近親相姦の被害者という女性の観客から疑問が投げかけられたのだ。

「私は近親相姦の被害者です。浅野さん演じるお父さんは加害者。二階堂さん演じる花さんは、未成年だから被害者。一般の人たちはアダルトビデオでしか知らないと思いますが、あまり美化されてしまうと……」

 この突然の質問に、場内は静まり返ったという。壇上の熊切監督は「美化して描いたというつもりはない。そこにある厳しさをもって描いたつもり」と震える声で答え、主演の浅野も「見る方によって思い出させたりすることがあるならば、申し訳ない」と謝罪をするのが精一杯だった。

 だが、こうした反応は当然といえるかもしれない。実をいうと、この『私の男』は原作の段階から非常に物議をかもした作品だった。作者は桜庭一樹で、2008年第138回直木賞の受賞作なのだが、一部の選考委員から厳しい批判を受けていた。

 そのひとりが林真理子。林は『私の男』について「嫌悪感」と題したこんな選評を書いている。

「私はこの作品をどうしても好きになれなかった。(中略)主人公の女性にも父親にもまるで心を寄せることが出来ない。高校生の娘が、自分を愛撫した父親の指をさし、「私という女そのものなの」などというシーンに出くわすたび、ぞぞっと違和感が起こるのである。とってつけたような殺人があり、父と娘は自分たちの秘密を守るために善意の人間をも手にかける。それでも、二人して地獄に落ちていこうというのならまだ話はわかるのだが、娘の方はナイーブな金持ちの坊ちゃんをつかまえ、華やかな結婚式をきちんと挙げるのだ。私には“わたし”“私の男”が、禁断の快楽をわかち合う神話のような二人、とはどうしても思えず、ただの薄汚い結婚詐欺の父娘にしか思えない。」

「薄汚い父娘」とは痛烈な罵倒だが、批判者は林だけでなく、エロスに対して理解があったはずの故・渡辺淳一もこんな選評を載せている。

「むろん、淳悟と花とのからみのシーンは熱く妖しいが、見方によっては、少女コミックに登場する近親相姦を思わせるところもある。以前からアメリカに多い父娘相姦に関わるレポートでは、少女たちはみなポストトラウマとして、深い罪悪感に苛まれているが、そうした内面志向はまったく見られない」

 たしかに、この作品、ストーリーだけを抜き出すと、かなりインモラルなものだ。26歳の遠縁の男が津波被害で家族を亡くした10歳の少女を引き取り、ほどなくその少女と次第に性的な関係におちいっていく。そして、男が実は、実の父親でもあることを少女は知るが、その関係をやめようとはしない。少女が高校生になった頃には、毎日のようにセックスをし、愛欲まみれの爛れた関係をどんどんエスカレートさせていく。しかも、関係を知って引き離そうとする親切な町の老人を殺し、さらには、逃げた東京に殺人の証拠をつかみ2人を訪ねてきた警官まで殺してしまう。そして、大人になった少女はやがて職場で出会った金持ちの青年と婚約するのだが、父親との関係も変わらず続いている。とにかく、明らかに少女姦や近親相姦をテーマにしており、しかもそれを否定的にではなく、むしろエロティックに描写しているのだ。

 映画も構成や結末は少し違うが、基本的には原作のテイストを忠実にいかしている。いや、映像化されているだけにもっと生々しいといっていいだろう。たとえば、中学生の二階堂ふみが浅野忠信の手を取り、人差し指を口にふくみ、チュパチュパとしゃぶり始める。自分の手も差し出し、浅野にも自分の指をくわえさせる。さらに、中学生の二階堂が浅野からのプレゼントのピアスを舌に乗せ、それを浅野の恋人に見せつけながら、こんなセリフをはく。「彼に殺されることができるか」「自分は殺されてもいい、何をされてもいい」。

 二階堂が高校生になってからのシーンはもっと激しい。浅野の腰に抱きついて「ほしい」とせがむ二階堂。制服の上から二階堂の乳房をまさぐる浅野。二階堂が制服のブラウスを脱いで、互いの体をなめまわす。浅野の股間をまさぐり、制服のスカートをはいたままパンティを脱ぐ二階堂。ちゃぶ台の横で、むさぼるようにセックスを始めるふたり……。近親相姦のメタファーなのか、血の雨が二人にふりそそぎ、血まみれでセックスを続けるシーンもある。
 
 そういう意味では、近親相姦の被害者からは違和感を表明されてもやむえない作品だし、原作に対して林真理子が「嫌悪感」「薄汚い」と攻撃したのもわからなくはない。

 だが、この作品について、そういった男が少女を支配しているというようなステロタイプな近親相姦批判があてはまらないのは、これが桜庭一樹という女性の作家が、女性の視点で描いた作品であることだ。小説の内容も、出発点では、養父による庇護という名の支配があるかもしれないが、しだいに男性のほうが少女に囚われ堕ちていく様が、生々しく描かれている。

 いや、それ以前に、そもそも小説や映画のような芸術作品にたいしてモラルをもちだして批判するのは少しちがうのではないか、という気がするのだ。

 これまでの文学の歴史をふりかえっても、多くのインモラルな作品が世界的な評価を得てきた。近親相姦をあつかった作品では、古くはギリシャ三大悲劇のひとつである『オイディプス王』や平安文学の代表『源氏物語』、ミルトンの『失楽園』などの古典的名作から、中上健次の『枯木灘』や『岬』、アーヴィングの代表作『ホテル・ニューハンプシャー』、ノーベル賞を受賞したガルシア・マルケスの『百年の孤独』など現代文学に至るまで数々の作品がある。直木賞選考委員でもある平岩弓枝の『日野富子』も母子相姦を描いている。

 近親相姦に限らずインモラルな題材を扱った小説や映画は多くある。たとえばカニバリズムを扱った『コックと泥棒、その妻と愛人』、中学生たちが殺し合う『バトルロワイヤル』、阿部定事件を題材にした『愛のコリーダ』、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』……、三島由紀夫の小説にもそうした題材は少なくない。

 こうして見ると、むしろ、モラルの向こう側にある人間の情欲や闇を描くことが、作品に普遍性やアート性をもたせてきたことも否定できない。

 テレビのような誰でもアクセスできるメディアはともかく、映画や文学については、別の次元で考えるべきだと思うのだが、みなさんはいかがお考えだろうか。
(酒井まど)

最終更新:2018.09.27 01:08

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