リオ五輪、W杯最終予選直前に考える、サッカーは右翼的ナショナリズムやレイシズムと無縁ではいられないのか

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清義明『サッカーと愛国』(イースト・プレス)

 8月4日(日本時間では5日)、ナイジェリア戦を皮切りにスタートするリオデジャネイロ五輪のサッカー。また、9月1日にはアラブ首長国連邦戦を皮切りにワールドカップのアジア最終予選も始まる。今年の夏はサポーターにとって、観戦で眠れぬ夏となるわけだが、ここで視点をピッチではなく、スタンドに向けてみたい。

〈サッカーファンならば知っていることだが、それ以外の人たちには時折勘違いされることがある。それは、サッカーファンが「ナショナリズム」に染まった右派的な人たちの集まりだというものだ。
 確かに、スポーツニュース以外のところでサッカーが話題になるのは、フーリガンの暴力沙汰や差別事件ばかりである。そして、日本代表の試合になれば国旗をなんのてらいもなく振り回す人たち。このイメージが観念連合に昇華すれば、サッカーファンは右派的とみなされても仕方ないかもしれない〉

 サッカーと社会問題の関係について執筆しているフリーライターの清義明氏は、先日出版された『サッカーと愛国』(イースト・プレス)でこのように綴っている。

 スポーツとナショナリズムは親和性が高く、確かにサッカーは殊にその傾向が強いイメージをもたれている。それがうまく機能すればサッカーは人々を連帯に導くための有効なツールとなるが、一歩間違えば、マイノリティの人々を排斥するための非常にグロテスクな人種差別の道具となってしまう。

 ヨーロッパのサッカーの歴史を紐解いていけば、1980年代はサッチャー政権下に若者の失業者が急増、そんな時代背景のもと、ナショナルフロント(右翼)が多く属するフーリガンによる暴力事件が社会問題化し、当時サッカースタジアムに行くことが命がけの行為だったことは有名であった。その様子は、同時代のパンクロックの歌詞や映画でも多く作品のテーマとされており、今でもそれらを通じて当時の危険な空気感を疑似体験することができる。

 それから時が経ち、各国のサッカー協会やチーム、およびサポーターの努力によって、現在ではそういった状況はある程度改善されてはいるものの、いまでもピッチ、スタンドにおける人種差別をめぐる問題は根深く残っている。

 2014年、当時バルセロナに所属していた黒人選手のダニエウ・アウベスがコーナーキックに向かう途中、観客のひとりが彼にバナナを投げつけ、アウベスがそのバナナを手に取って食べることで抗議。そのユーモアをともなった返しに、ネイマールやダヴィド・ルイスらが共鳴。選手や監督など各国のサッカー関係者がいっせいにバナナを食べる写真をソーシャルメディア上に投稿した一件を覚えている方も多いだろう。

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