元AV女優の社会学者・鈴木涼美がAKBファンは「気持ち悪い」「指原より私のほうが可愛いし」

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社会学者の鈴木涼美氏(『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』幻冬舎)

 70本以上の出演歴をもつ元AV女優でありながら、東大大学院修士課程修了の元日経新聞記者、という異色の経歴で注目を集めている社会学者の鈴木涼美。最近は、テレビでもちょくちょく顔を見かけるようになったが、その彼女が「TV Bros.」(東京ニュース通信社)に書いた文章が物議をかもしている。

「指原より私のほうが可愛いし」

 こんなタイトルがついたコラムで、AKB総選挙に熱狂する男たちをこう批判したのだ。

〈それにしても、相変わらず日本の男子たちは、なんと良識的なんだろうと思う。鼻が多少団子っ鼻でも、脚がやや太くても、眉毛の形がいびつでも「いや、僕はそんなところ気にならないよ」と票を投じる。絶対あの子のほうが美人だけど「僕にとってはキミの方が可愛らしい」「僕はキミの内面的な魅力を見ている」「キミの頑張りを評価したい」と、まさに友人の評価はいまいちでもshe so cuteである。私はそれが気持ち悪くてしょうがない。〉
〈完璧な美人でなくてもキミが好き、と言えるのはまさに恋のなせる技なのであって、別に恋愛感情のない相手だったらパーフェクトに輝く美人であったほうがいいに決まっている。私は別に自分と個人的に精神的、もしくは肉体的関係を紡いでいるわけでもないオンナに対して、「不完全さを愛する」という態度を示されると、なんとも言えない居心地の悪さを感じる。〉

 たしかに、鈴木涼美の指摘した、男たちの「不完全さを愛する」という態度は、まさに現在のアイドルオタクの“思想の核”というべきものだ。

 彼らの愛する「不完全」は、ルックスだけではない。“歌”や“ダンス”も含め、彼女たちが抱えている欠落をすべてこよなく愛している。自分たちの応援がそれを埋めることができるかもしれない──彼らは「不完全さ」を目にするたびに、自分の存在価値を見いだし、アイドルにはまっていく。多くのアイドルファンは「パーフェクトな美人よりちょいブスが好き」とか「クラスで3番目に可愛い女の子を」とかいう次元を超えて、「不完全」という名のファンタジーの虜になっている。

 だが、鈴木涼美にとっては、そういう発想のあり方が「気持ち悪くてしょうがない」らしい。実際に恋愛関係があるならまだしも、単なる“擬似恋愛”なのに、なぜ「パーフェクトな美人」のタレントを選ばない? 鈴木涼美は、“アイドルオタク”的な思想を全否定する。

 こうした嫌悪感をもっているのは彼女だけではない。「不完全」というファンタジーは、アイドルと同性の、リアルなかっこよさや可愛さ、モテを求める女の子たちからはまったく支持を得ることができていないのだ。

 映画評論やアイドル評論で定評のあるミュージシャンの宇多丸は著書『ライムスター宇多丸の「マブ論CLASSICS」―アイドルソング時評2000-2008』(白夜書房)のなかで、同性から見た女性アイドル像についてこう指摘している。

「80年代半ば以降、女性アイドル歌手は「いま一番イケてる女の子」像の体現者たり得なくなり、好事家向けのファンタジーに閉塞していった……という事実の、最も分かりやすいバロメーターは、「同性の模倣率」でしょう。モテたいから「ジャニーズっぽい」髪型にしました、という男の子は無数にいても、同様の動機を抱いた女の子がその際に参照する対象は、間違ってもモーニング娘。や松浦亜弥では――その全盛期でさえ――あり得ないわけです。かつては例えば、それこそ「聖子ちゃんカット」や“ぶりっこ”な振る舞いまでもが(散々揶揄されながらも)その世代の標準装備になったりもしていたのとは隔世の感……」

 そういう意味では、鈴木涼美の「気持ち悪い」は「リア充女子」がもつ典型的な感情なのだろう。

 あるいは、そこにはフェミニズム的な視点も入っているかもしれない。彼女の著書『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎)のなかに、元カレと別れた鈴木に対して、母が「嫌いだよ、オトコって。なんだかんだ。自分より経験がある女も、自分より恵まれた環境にいる女も、自分よりアタマがよい女も」と、彼女が恋人より高いスペックをもち、なおかつそれを彼に劣等感を与えるぐらい表に出し過ぎたからだと諭すシーンが出てくる。

 自分のことを「スペックが高い」と言う母親の言葉に説得されるというのもスゴいが、たしかに知性や教養、サブカルや性的過激さをもつ女性のことを拒否する男性の保守的メンタリティへの苛立ちのようなものは理解できる。

 だが、一方で、鈴木の主張は文化論としてはやや乱暴ではないか、という気もするのだ。そもそも、不完全なもの、アンバランスなものが大衆に愛されるというのは、この時代のアイドルにはじまったことではない。西洋の近代絵画や日本の浮世絵でもしばしば見られた現象だし、吉永小百合からはじまって、天地真理や山口百恵など、社会現象を引き起こした女優、アイドルのほとんどはいわゆる「パーフェクトな美人」ではなかった。

 むしろ、「不完全さ」はいつの時代も、美の価値を最後の最後、もうひとつ上のレイヤーに押し上げる重要なファクターになってきた。前述の宇多丸の著書でも、対談相手の小西康陽が、その「不完全さ」を「ほつれ」と表現し、こう指摘している。

 宇多丸「いまや歌声なんて、コンピューターでいくらでも正確に直せるじゃないですか。そこで、ある程度直したとしても、「直し過ぎない」っていうのは意識されてたりします?」
 小西康陽「しますね。やっぱり、完成度の高いものの中に、生身の女の子の「ほつれ」っていうかさ、そういうのがあるから、それがいいわけでしょ。僕はそこに一番美しいものを見出すんですよね」

 彼女のいたAVの世界だって、不完全なものがもっとも大きな興奮をもたらすという逆転現象が日常的に起きている場所だ。その逆転の現場をその目で見ている彼女がなぜ、こんなことに気づかないのか。最初は、不思議でしようがなかったのだが、読み進めていくうちに、その謎が少し解けた気がした。

 それは、団子っ鼻で、脚がやや太くて、眉毛の形がいびつなAKBの対極として、彼女があげた「パーフェクション」の象徴が「浜崎あゆみ」だったからだ。

〈肌は陶器がごとく何の緩みもなく、ほぼ左右対称で、眉毛も唇もそこ以外置く場所が思いつかない場所に配置されている。「私だったらもっとこうする」とか「私はもうちょっとここがこうなってるほうが好き」とかいうコメントを一切排除する。〉

 ん? 浜崎あゆみって、そんな完璧だったっけ。筆者の印象はむしろ、それこそ足は短いし、たれ目な上に目と目が離れていて、鼻腔がやや開き気味で、宇宙人みたいな声を出し、いい歳して自分のことを「あゆ」という。そして『Trauma』なんていうどストレートな欠落の歌を好んで歌う、そんなイメージなのだが……。

 いや、別にあゆのことをけなしているわけではない。そうではなく、浜崎あゆみもまた「不完全さ」でファンを惹き付けているアーティストの一人であるのに、それを無自覚に「パーフェクション」だと言ってしまう、そんなところに、鈴木涼美の自意識を感じ取ってしまったのだ。

 そして、社会学的な分析とはまったく関係なく、その自意識が彼女をしてAKBファンを「気持ち悪い」と言わしめているのではないか、と。

 もちろんこれは批判ではない。ポストモダンの影響が色濃く感じられるあんなスノッブな文章を書きながら、あゆを神と仰いでしまう実存。それこそが鈴木涼美を凡百の社会学者の枠からはみ出た、特別な存在に押し上げているのだろう。今はけっこう本気でそう信じている。
(本田コッペ)

最終更新:2016.08.05 06:52

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