「火垂るの墓では戦争は止められない」高畑勲監督が「日本の戦争加害責任」に向き合うため進めていた幻の映画企画

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2017年4月、東京で行われた三上智恵監督とのトークイベントでの高畑勲監督(撮影=編集部)

 5日に亡くなった高畑勲監督の代表作『火垂るの墓』(1988年)が、本日の『金曜ロードSHOW!』(日本テレビ)で放送される。周知の通り「反戦映画」として国内外から高い評価を受けた作品だが、生前、高畑監督は「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言していたことは、本サイトでも何度か紹介してきた。

「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」(神奈川新聞2015年1月1日付)

 一方、その高畑監督が『火垂るの墓』の次に撮ろうとしていた“まぼろしの作品”については、あまり知られていない。監督作としての次作は1991年の『おもひでぽろぽろ』になるが、実はその間、高畑監督は別の企画を進めていた。しかし、ある理由によりお蔵入りになったという。「国公労新聞」2004年1月1・11日合併号のインタビューで監督自身がこう語っている。

「(『火垂るの墓』は)戦争の悲惨さを体験したものとして、平和の大切さを訴える作品をつくることができたことはよかったのですが、一方で、日本のしかけた戦争が末期になってどんなに悲惨だったかだけを言っていてもいけないと思っています。
 じつは『おもひでぽろぽろ』をつくる前に、しかたしんさん原作の『国境』をもとにして、日本による中国への侵略戦争、加害責任を問う企画を進めていたのです。残念ながら、天安門事件の影響で企画が流れたのですが、日本が他国に対してやってきたことをきちんと見つめなければ世界の人々と本当に手をつなぐことはできないと思っています」

 そう。高畑監督が『火垂るの墓』の次に取り組もうとしていたテーマは、日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問うことだった。ついに日の目を見ることのなくなった“まぼろしの高畑映画”。その原作となるはずだった『国境』とは、どういった作品なのか──。現在、絶版となっている同作を読んでみた。

高畑監督が撮るはずだった“幻の映画”の原作『国境』とは

 『国境』(理論社)は、児童文学作家、劇作家のしかたしん氏が、1986年から1989年にかけて発表した小説3部作。1冊にまとめられた1995年版は全600ページを超える長編である。日中戦争、太平洋戦争時の朝鮮・中国・満州・モンゴルを舞台に、ソウル生まれの日本人青年が、死んだはずの幼馴染みを探すなかで、反満抗日や朝鮮独立の地下独立運動に参加していくというのが物語の大枠だ。

 同作には、甘粕事件の甘粕正彦や、陸軍大将の東条英機、朝鮮独立運動家としての金日成、あるいは森繁久弥など、実在の人物名が多数登場するが、ノンフィクションではなく、あくまで“冒険小説”としての体裁をとっている。しかしその一方で、物語に作者本人の戦争体験が色濃く反映されているのは疑いない。

 著者のしかた氏は1928年、日本統治下の朝鮮・京城(現在のソウル)で生まれた。父は京城帝国大学の教授、母は洋画家で、当時ではリベラルな空気の中で育ったという。京城帝国大予科在学中に終戦を迎えたしかた氏は、引き上げた日本で大学を卒業。民放ラジオ局でディレクターを務めたのち、1974年から作家一本の人生に入り、2003年に亡くなった。しかた氏にとって『国境』は「ライフワークのひと節」「一番かわいい作品」だったという。

 第一部「大陸を駈ける」の時代背景は、盧溝橋事件から2年後の1939年。主人公の「昭夫」は京城帝大の予科生だ。学友たちとやがて戦地に駆り出されることを意識しながら飲み会をしていた初夏の夜、密かに好意を寄せる「和枝」から、満州での訓練中に事故死したとされた和枝の兄で幼馴染の「信彦」が生きていることを聞かされる。

 日本が1932年に樹立した「満州国」。昭夫はふと、信彦が満州の軍官学校行きを決めたときに「天皇陛下のためには死ねそうもないが、満州の未来のためなら死ねる」と言っていたのを思い出していた。昭夫はその意味を考えながら、(少しばかりの下心をもって)満州まで信彦探しの旅に出る。しかし、その背後を「白眼」(しろめ)と呼ばれる冷酷で残虐な満州公安局の諜報員がつけねらっていた。

 実は、信彦は関東軍がさらったモンゴルの将軍の子孫で、軍官学校を脱走して地下工作運動に加っていたのだ。信彦の“帰路”を辿る過程で諜報員から命を狙われた昭夫は、地下運動に関わるモンゴル人「秋子(ナムルマ)」たちに助けられながら、満州国が「五族協和」の美辞を建前にした侵略に他ならないことに気がつく。また、自らが白眼に捕らえられて苛烈な拷問を受けるなかで、日本人による差別、暴力、搾取、性的暴行、戦争犯罪の実態を身をもって知り、旅を終えて京城へ帰る。

 続く第二部は太平洋戦争中の1943年。軍属の技師として独立を願う朝鮮人たちと交流しながら武器製造に携わる昭夫は、日本軍人の卑劣な暴力支配、大本営発表の欺瞞を再び目の当たりにして、朝鮮の独立運動に身を捧げる決意をし、信雄や秋子らとの再会を果たす。そして第三部では、独立活動家として1945年8月15日の敗戦を生まれの地・京城で迎え、白眼との戦いにもピリオドがうたれたところで、物語は幕を閉じる。

「朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがある」

 以上が『国境』のあらすじである。予科生の昭夫が漠然と考えていた朝鮮・中国、満州・モンゴルの「国境」とは、侵略者である日本が引いて強要しているものだった。

 昭夫がそのことを悟るのは、日本人による暴力や差別を目の当たりにしたことだけがきっかけではない。むしろ、支配を受けている当事者たちとの腹を割った交流から、「祖国」とは「民族」とは何かを見つめ直すことで独立運動に関わっていくのである。たとえば、作中で機関士に扮してモンゴル国境へ向かう最中、昭夫は協力者のモンゴル人や朝鮮人とこのような会話を交わしている。引用しよう。

〈昭夫は改めて運転室の中を見渡した。石炭で真っ黒になった信彦の顔を想像しておかしくなった。ドルジは続けた。
「日本人として育てられ、それから自分の国を選び直したんだからな。国を選び直すというのは大変なことだろうよ。おれなんかは、満州なんか国じゃない、おれの国はモンゴルだ、それ以外に考えたことはなかったけどさ。彼はそうじゃないもんな」
「選べる国があるやつはいいよ」
 突然声がした。李さんだった。
「俺たちには国がないんだからな」
 ちょっと遠慮がちに昭夫の顔を見てから続けた。
「日本人に国を追い出されて、満州をあちらこちらとうろつきまわったけど、どこへ行ってもよそ者だった。よその国の大地、その国の空をさ迷う人生というのがわかるかい。こうやって働いたり考えたり喋ったりしたことは、みんなよその国の空と土の中に消えちまうのだ。誰がその歴史をついでくれるというあてもなくな。──淋しくってな。本当に淋しいよ」〉

 また、同作の特徴のひとつとして、関東大震災時の朝鮮人虐殺、慰安婦や徴用工の強制連行、人体実験をしていた731部隊、植民地解放を謳った傀儡政権の樹立、朝鮮人の創氏改名など、日本による加害事実のエピソードが随所に挿入されることが挙げられる。そのすべてが作者の実体験ではないにせよ、少なくとも日本軍による強制連行については、当時目撃した光景が如実に反映されているようだ。しかた氏はある講演のなかでこう証言している。

〈いっぺん、どこかの小さい駅で朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがあるんです。これもすごかったですね。ぼくは人間が泣くというのはこういうことかと初めて知ったわけです。オモニが泣き叫ぶ、泣き叫ぶオモニをけ倒し、ぶんなぐり、ひっぺがしながら、息子や夫たちが貨車に積みこまれていく光景を見てしまった。その泣き声は強烈に残っているんです。ぼくはそのとき、自分が朝鮮人をわかっていると言ってたくせに、指一本動かすことができない日本人の限界を、どっかで感じていたんですね。〉(『児童文学と朝鮮』神戸学生青年センター出版部、1989年)

なぜ企画は流れてしまったのか。原作者と高畑監督の無念

 また、第三部で細かく描かれている終戦日のソウル市内の活況も、しかた氏本人の体験が元になっている。しかた氏ら京城帝大予科生は、8月15日の正午ごろまでソビエトの侵攻に備え、爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練を行なっていた。直後に聞いた玉音放送。頭が真っ白になって、そのまま京城の町を散歩した。そこで、しかた少年ははじめて朝鮮人のデモ行進を見て、その明るさに感動したという。少し長くなるが、前出の講演から再び引用しよう。

〈大変恥ずかしいことだったんですけれども、そのときは侵略者としての罪の意識はなかった。
 ヒョッと気がついてみると、その街角に一人、予科の学生が突っ立っていたんです。これは朝鮮人の学生です。(中略)建国準備会という腕章をつけていた。まずいことに、そいつとバチッと目があっちゃったんですね。目があわなかったら、ぼくは知らん顔をして万歳、万歳と言いながら、おそらく京城駅まで行ってたと思うんです。(笑)
 そいつが、ちょっと来いというんです。「なんやねん」と行ったんです。彼にえらい厳しい顔で、「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」って言われたんですね。それはほんとにドキッとしましたね。「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」と言われたときに、アッと気がついた。まことにうかつな話ですけれども、それが自分にとって朝鮮に生まれ育ったことをもう一回問い直す、見直す、その大きなきっかけになった気がするんですね。〉

 これは推測になるが、おそらく、高畑監督が問いたかった「加害責任」とは、戦時下の暴力や犯罪だけじゃなかったのではないだろうか。事実、『国境』という物語は、侵略者による「加害」が、決して身体だけに刻まれるものではないことを教えてくれる。生まれた国や名前を奪われるということ。自分たちの歴史を奪われるということ。それは、暴力や略奪の「当事者」たちが鬼籍に入ってもなお、永遠に癒えることのない「加害」だろう。

 しかし、ついぞ『国境』は高畑監督によって映画化されることが叶わなかった。高畑監督は前述の「国公労新聞」インタビューで「天安門事件の影響で企画が流れた」と多くを語っていないが、調べていくと、しかた氏がその裏側を雑誌『子どもと読書』(親子読書地域文庫全国連絡会)1989年12月号のなかで記していたのを見つけた。

 高畑監督を〈アニメ映画界のなかでもっとも尊敬する人〉だったというしかた氏は、作品の提供を快諾し、完成を楽しみにしていた。高畑監督も〈全力をかけてやりたい〉と意気込んでいたという。しかし、『国境』第三部が完結した1989年に天安門事件が起きて、配給会社から「あの事件のために日本人の中国イメージが下がり販売の自信がなくなったから」との理由でキャンセルを申し入れられたという。しかた氏はそのショックについてこう綴っていた。

〈私が何ともやり切れない思いにかられたのは、そういう(引用者注:マーケットの)リサーチを受けた時の日本人一般の反応を想像してしまったからなのです。
「人民解放軍だってあんなひどいことをやったんだ。おれたち日本がやったことも、これでおあいこさ。もう免罪になったんだ。この先侵略者の罪とか歴史とか、そんなうっとうしいことはかんがえるのはやめにしようや。もっと軽く楽しくいこうや」〉

 翻って現在。安倍政権のもとで、戦中日本の加害事実を抹消・矮小化しようとする歴史修正主義が跋扈している。安倍首相は、戦後70年談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と胸を張って述べた。

 こんな時代だからこそ、やはり、映画版『国境』は“まぼろしの作品”になるべきではなかった。きっと、高畑監督も、そう思いながら眠りについたのではないだろうか。そんなふうに思えてならないのだ。

最終更新:2018.07.23 03:30

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