エヴァ貞本義行、くるり岸田繁まで…あいちトリエン“慰安婦像”攻撃で露呈した無自覚なヘイト、表現の自由の矮小化

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くるり岸田繁のツイート「あれは表現の自由か」に見る浅薄な理解

 そして最後に、実はこれが一番のコントラバーシャルなのだが、貞本氏の“言い訳”のなかには「アートと政治を切り離すべき」という主張が感じられることだ。この点については、多くの人が誤解しがちなところなのでちゃんと整理しておきたい。

 実際、似たような意見は、貞本氏以外のクリエーターからも出ている。たとえば、くるりの岸田繁は「表現の不自由展・その後」中止に関して、このようにツイートしている。

〈あれは表現の自由なんだろうか。政治とアートは隣合わせと言われるけど、政治にしか見えないのは残念。〉
〈誤解を招くので説明しますね。全てのアートは人に届くことによって必ず「政治性」を帯びます。本人が意図していなかったとしても。後付けで色んなものが付いてくる。タイアップとか、有名人賞賛とか。それを固辞することでさえ政治性。政治性を帯びれば帯びるほど、楽しめるアートの種類は減る。〉
〈私が残念だなと思うことは、芸術作品が闘争の道具に使われてしまうこと(例えそれを見越したものであっても)です。そうでないものもそうであるように見えてしまうことが起こるからです。勿論、作り手は丁寧に思想や哲学と向き合うことは大切なことですが。〉(8月3日)

 言うまでもなく、芸術が「美以外のあらゆるもの」から完全に独立することができるかというのは、ある意味、古代ギリシア以来の哲学的問いだが、事実としてみれば古今東西、芸術は「政治的なるもの」と不可分だった。信仰や思想、時代性、民族性、相互性は言うに及ばず、あるいは美の受け取り方自体すら解釈を含むからだ。

 だが、芸術が「政治的なるもの」を帯びることと、「政治の言いなりになる」ことは大きく違う。前者はその根本に人間精神とその表現が発揮され、後者はそれらが抑圧・歪曲されているからである。単に「政治的だ」という言い方でなされる批判は、その異なる両者の性質を混同しているだけでなく、実のところ、それによって芸術の自由を矮小化している。

 そして、岸田氏など、今回の問題で少女像などの展示を批判している人たちが口にしている「表現の自由」というのは、まさにこの“矮小化されている自由”にすぎない。

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