マスコミが触れない村上春樹『騎士団長殺し』の核心部分(前編)

村上春樹『騎士団長殺し』は歴史修正主義と対決する小説だった! 百田尚樹も気づいてない南京虐殺の生々しい描写

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『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』(新潮社)

百田尚樹らのネトウヨ的ヒステリーはある意味、的を射ていた

 村上春樹の7年ぶりの長編小説ということで、発売前から大きな話題を集めていた新作『騎士団長殺し』(新潮社)。発売からわずか3日間で『第1部 顕れるイデア編』と『第2部 遷ろうメタファー編』の合計が50万部近くまで到達し、改めて村上春樹の圧倒的な人気が浮き彫りとなったかたちだ。

 しかし奇妙なことがある。これだけ売れているにもかかわらず、マスコミでは『騎士団長殺し』の内容や主題についての言及がほとんどないのだ。いつもなら、村上春樹の長編が発表されれば、謎解き合戦が繰り広げられる。今回も発売前にタイトルが発表されただけの段階で、「『騎士団長殺し』というタイトルだから、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』が関係しているのではないか」というようなハルキストの推測を放送していたテレビもあった。

 それなのに『騎士団長殺し』が発売されたとたん、新聞やテレビはこの小説のことを大きく扱わなくなった。それどころか、この小説の核心部分に触れた論評はいまのところ、文芸誌の批評なども含めてほとんど皆無に近い。

 いったいなぜか。それはおそらく、その核心部分が、歴史修正主義との対決にあるからだろう。

 実は、『騎士団長殺し』はすでに、ネトウヨたちから「南京大虐殺を認める記述がある」と攻撃を受けていた。たとえば、発売直後に百田尚樹はこんなツイートをしていた。

〈村上春樹氏の新刊『騎士団長殺し』の中に、「日本軍は南京で大虐殺をした」という文章があるらしい。これでまた彼の本は中国でベストセラーになるね。中国は日本の誇る大作家も「南京大虐殺」を認めているということを世界に広めるためにも、村上氏にノーベル賞を取らせようと応援するかもしれない。〉

 また、ヘイト団体・在特会の元会長でレイシストの桜井誠も同じくツイッターでこう書いていた。

〈村上春樹が「日本軍は捕虜管理能力がなかったから、降伏した敵兵や市民を虐殺した」と最新刊『騎士団長殺し』で記述しています。フィクションではありますが、このような事実と違う表現を文章に書けば村上信者がどう受け止めるか誰にでも分かります。本当にこの輩は日本人なのか疑ってしまいます。〉

 これらのツイートを読んだ当初、筆者は「また頭の悪いネトウヨたちが本もまともに読まず、一部の記述を抜き出して脊髄反射的なヒステリーを起こしている」と思っていた。実際、両者のツイートが指摘している箇所は、登場人物の一人が南京事件を解説しているだけのほんの十行たらずの箇所にすぎず、しかも、その解説は「正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが」ときちんと注釈のついた至極まっとうなものだった。逆に、百田や桜井の村上批判は、保守派の学者さえ相手にしない「南京虐殺まぼろし論」であり、一顧だに値しない。

 しかし、連中の主張のトンデモぶりはともかく、その警戒感は正しかった。『騎士団長殺し』をきちんと読んでみると、先の戦争における加害責任を指摘しているのはこのシーンだけではなかった。それどころか、作品全体に、戦争という負の歴史に向き合い、安倍政権的な歴史修正主義と対決する姿勢が貫かれていたのだ。

『騎士団長殺し』の鍵をにぎる2つの戦争体験

 もちろん村上春樹の小説だから物語は多層的であり、それこそ百田尚樹の『カエルの楽園』のような、自分の言いたいことをカエルたちにしゃべらせるだけのプロパガンダ小説とはまったくちがう。この小説から受け取ることのできるメッセージや問題提起は多岐にわたっている。それでもあえて言うが、歴史修正主義批判はこの小説の最も重要なテーマとなっている。

 そのことを検証するために、まず簡単にストーリーを紹介しよう。

 妻から離婚を切り出され家を出た肖像画家の主人公〈私〉は、美大時代の友人である雨田政彦からの提案で、彼の父であり著名な日本画家の雨田具彦が使っていたアトリエに、仮住まいすることに。そのアトリエの屋根裏部屋で主人公は、一枚の絵を発見する。『騎士団長殺し』と題されたその絵は、傑作といってもいい力をもった作品だが、公にはその存在を知られない未発表作品だった。絵の発見を契機に、主人公に不思議な出来事がいくつも起きる……。

 まさに、この『騎士団長殺し』という絵こそが物語を導く重要な核となっているのだが、注目しなければならないのはその絵が何を描いていたか、だ。『騎士団長殺し』は人殺しの場面を描いており、絵のなかの5人の人物は飛鳥時代の服を着ていて、若い男が年老いた男の胸に剣を突き立てている。さらに、それを見て悲鳴をあげる若い女性、片手に帳面をもった若い男性、地面から顔をのぞかせる顔のながい男が描かれていた。

〈それは息を呑むばかりに暴力的な絵だった〉。しかし、〈私〉の知るかぎり、雨田具彦が描く絵はノスタルジアをかきたてるような、穏やかで平和的なものであることが多く、こんな暴力的な絵画を描いたことはなかった。

 そして、主人公である〈私〉はこの『騎士団長殺し』には〈何か特別のものがある〉と思い、この絵に隠された謎を追いかけていく。雨田具彦は、なぜ『騎士団長殺し』を描き、なぜ誰の目にも触れさせることなくその存在を隠し続けてきたのか。

 すると、そこに第二次世界大戦における2つの戦争体験が大きく影響していることがわかってくる。

 ひとつめはナチス抵抗運動への参加と挫折だ。戦後、日本画家として大成した雨田具彦だが、戦前は将来を嘱望された洋画家で、ウィーンに留学していた。しかし、そのさなかに、オーストリアはナチス・ドイツに併合され、ヒトラーの暴力支配がどんどん激しくなっていったことから、雨田は学生たちが組織した反ナチ地下抵抗運動に参加。仲間とともにナチス高官暗殺を計画する。しかし、計画は未遂に終わり、関わったものは次々とゲシュタポに逮捕され、処刑されてしまう。雨田のオーストリア人の恋人も強制収容所に送られてしまう。

 しかし、雨田だけはただひとり生き残った。日本に強制送還されたのだ。その後、雨田は郷里の熊本で隠遁生活を送り、戦後、日本画家として再デビューを果たすのだが、その頃に描いたと思われるのが『騎士団長殺し』の絵だった。

 このことを知った主人公〈私〉は、『騎士団長殺し』がナチス高官暗殺未遂事件を、日本の飛鳥時代に設定を移し替えて描いたのだと推察する。暗殺を成し遂げられずヒトラーの蛮行を止められなかった悔恨と、自分だけ生き残ってしまった罪悪感が、この絵を描かせた、と。

 しかし、さらに『騎士団長殺し』の謎を追いかけていく過程で、〈私〉はもうひとつの戦争体験にぶちあたる。それは、雨田具彦がナチス暗殺未遂事件を起こすわずか数カ月前、具彦の弟・継彦が体験した南京大虐殺だった。ピアニストを目指していた継彦だが、徴兵され南京攻略戦に参加し、殺戮を強制された壮絶な体験がトラウマとなり帰還後、自殺したのだった。そして、この弟の自殺が雨田を反ナチの運動に駆り立てたのではないか、という推理も作中で紹介される。

 百田たちが村上をディスっていた記述は、継彦が自殺していたことを教えてくれた人物がその理由を語る前に、〈南京大虐殺〉について説明する部分だ。以下に改めて引用しよう。

生々しすぎる南京大虐殺の描写、ナチスと日本の関係へのこだわり

〈「いわゆる南京大虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占拠し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市内の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?」〉

 前述したように、この説明はしごく真っ当だが、しかし、百田のようなバカなネトウヨを逆上させるに十分な歴史修正主義批判になっている。

 しかし、実を言うと、村上はこの作品でもっと生々しく南京での虐殺を描いている。それは、継彦の甥である雨田政彦が語る継彦の捕虜惨殺のシーンだ。

〈叔父(=継彦)は上官の将校に軍刀を渡され、捕虜の首を切らされた。(略)帝国陸軍にあっては、上官の命令は即ち天皇陛下の命令だからな。叔父は震える手でなんとか刀を振るったが、力がある方じゃないし、おまけに大量生産の安物の軍刀だ。人間の首がそんな簡単にすっぱり切り落とせるわけがない。うまくとどめは刺せないし、あたりは血だらけになるし、捕虜は苦痛のためにのたうちまわるし、実に悲惨な光景が展開されることになった。〉
〈叔父(=継彦)はそのあとで吐いた。吐くものが胃の中になくなって胃液を吐いて、胃液もなくなると空気を吐いた。(略)上官に軍靴で腹を思い切り蹴飛ばされた。(略)結局彼は全部で三度も捕虜の首を切らされたんだ。練習のために、馴れるまでそれをやらされた。〉

 しかも、ここで描かれているのは、加害者になることの悲劇だ。雨田具彦も弟・継彦も戦争に深く傷つけられ大きく人生を変えられた。しかし作中、具彦のことも、継彦のことも、戦争の「被害者」という立場だけにとどめることはしない。 

 それは、継彦の手による殺戮について、継彦の甥である友人・雨田政彦が〈「(叔父は)ショパンとドビュッシーを美しく弾くために生まれてきた男だ。人の首を刎ねるために生まれてきた人間じゃない」〉〈いったん軍隊みたいな暴力的なシステムの中に放り込まれ、上官から命令を与えられたら、どんなに筋の通らない命令であれ、非人間的な命令であれ、それに対してはっきりノーと言えるほどおれは強くないかもしれない〉と同情的な姿勢を示したときの反応によく表れている。

〈私〉は、〈「人の首を刎ねるために生まれてきた人間が、どこかにいるのか?」〉と反論し、〈私は自分自身について考えてみた。もし同じような状況に置かれたら、私はどのように行動するだろう?〉と自らに問いかけるのだ。

 雨田具彦についても同様だ。ナチスに抵抗しようとした勇敢な日本人がいた、というような書き方はしない。恋人もふくむ同志たちは全員殺害されたが、雨田具彦だけは日本とナチス・ドイツの同盟関係のおかげで生き残った。日本に強制送還されたことは、実質は「救出」だと繰り返し指摘する。

 それ以外にも、この作品では、日本とナチス・ドイツの同盟関係が繰り返し指摘されている。

〈その一年半ほど前に日独防共協定が結ばれたばかりで、日本とナチス・ドイツとの結びつきは日を追って強くなっていきました〉
〈一九三六年十一月には日独防共協定が成立し、その結果日本とドイツは歴然とした同盟関係に入っていきます〉
〈ミュンヘン会談でとりあえず戦争は避けられたが、ベルリンと東京の枢軸は強化され、世界はますます危険な方向に向かっていった〉

春樹はなぜ『騎士団長殺し』という小説を書いたのか、その答えが

 ネオナチは論外として、「従軍慰安婦問題や南京虐殺問題と、ナチスのやったホロコーストはちがう」「日本はナチスほど悪いことをしたわけではない」などと思い込んでいる人も少なくない。若い世代になると日本とナチスが同盟を結んでいたことすら知らない人も多い。しかし春樹は、戦争責任について国内でいつも議論の対象となるのはアジアへの侵略だけでなく、もっと俯瞰してナチスへの日本の加担もふくめて、その責任を問うているのだ。

 しかも、それは結果的にそういった要素が盛り込まれたわけではない。この戦争での加害に対する責任こそが、『騎士団長殺し』という作品の大きな執筆動機のひとつだった。

 この作品のちょうど真ん中、第一部の最後の章にそのカギがある。この32章は、章まるごと全部がある作品の引用だけで成り立っている。サムエル・ヴィレンベルクの『トレブリンカの反乱』という70万人以上のユダヤ人が殺害されたトレブリンカ収容所の数少ない生き残りが記したホロコーストについてのノンフィクションからの引用だ。

 引用ではワルシャワ出身の画家がこんなことを語る。

「わたしはドイツ兵のために色彩画を描いている。肖像画なんかを。連中は親戚やら奥さんやら、母親やら子どもたちやらの写真を持ってくる。誰もが肉親を描いた絵を欲しがるんだ。親衛隊員たちは、自分たちの家族のことを感情豊かに、愛情を込めてわたしに説明する。その目の色や髪の色なんかを。そしてわたしはぼやけた白黒の素人写真をもとに、彼らの家族の肖像画を描くのさ。でもな、誰がなんと言おうと、わたしが描きたいのはドイツ人たちの家族なんかじゃない。わたしは〈隔離病棟〉に積み上げられた子供たちを、白黒の絵にしたいんだ。やつらが殺戮した人々の肖像画を描き、それを自宅にもって帰らせ、壁に飾らせたいんだよ。ちくしょうどもめ!」

 末尾には、「隔離病棟」とは、トレブリンカ強制収容所の処刑施設の別称であるとの注が付されている。

 家族を愛するドイツ兵が、一方でユダヤ人の子どもたちを殺戮する。そのドイツ兵たちに自分が殺した人々の絵を描いて見せてやりたい。この収容所の肖像画家は、肖像画家の〈私〉であり、雨田具彦であり、そして村上春樹自身だ。

 肖像画家である主人公の〈私〉の制作プロセスは、春樹自身の創作論、春樹論の表明でもあるというのは、「歴史修正主義との対決」という核心には触れない評論家たちも共通して指摘している。

 だとしたら、雨田具彦はなぜ『騎士団長殺し』を描いたのか。そして村上春樹はなぜ『騎士団長殺し』という小説を書いたのか。自分の犯した加害を忘れるな。自分の犯した加害から目をそらすな。これがその答えだろう。

 さらに言えば、今回、春樹作品としてはじめて主人公が子どもをもつことが話題になっているが、これはその加害の責任を、社会の子どもとして、雨田具彦ら前世代から引き継ぎ次世代へと渡していくということも示唆しているのではないか。

 断っておくが、これはけっして恣意的な解釈でも妄想でもない。春樹はこの数年、ずっと歴史修正主義の問題と向き合い、度々戦争責任について言及してきた。そして、『騎士団長殺し』発売後のインタビューでも、「小説家として」歴史修正主義と闘っていくことを宣言していた。後編では、その内容を紹介し、そのことに言及しないマスコミや文芸批評の問題を指摘したい。

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