山田洋次監督が大林宣彦監督にエール!「今の支配者は戦争を知らない」「戦争の恐ろしさを発信し続けなくては」

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山田洋次「戦争は恐ろしいものだって、学校で教えられているとは思えない」

 

 山田監督といえば、長崎の原爆で亡くなった息子の霊(二宮和也)と母親(吉永小百合)の不思議な日々を描いた2015年公開の映画『母と暮せば』も記憶に新しいが、インタビューでもしばしば「戦争体験」「反戦メッセージ」を語っている。

 1931年に大阪で生まれた山田洋次監督は、機関車製造会社のエンジニアだった父が南満州鉄道株式会社に転職したのをきっかけに、2歳のときに満州へ引っ越している。それ以降、父の転勤に合わせて各都市を転々とし、13歳のときに大連で終戦を迎えた。

 当時のエリート職にあたる満鉄社員の父の給料は良く、少年時代の山田監督は何ひとつ不自由のない暮らしを送っていたという。戦況が悪化してからも、空襲に怯えながら日々を暮らさなければならないような内地とはずいぶん違った暮らしを送っていた。「本の旅人」(KADOKAWA)2011年4月号のインタビューでは、大連から見た内地の状況を「対岸の火事といった感じでした」と説明している。

 しかし、終戦を迎えて状況は一変。父は職を失い、家も八路軍に接収されると、一家は食料や燃料にも困る日々を送ることになる。それからは衣類や古本などを兄弟3人揃って街角に立って売る生活に。友だちの家を訪れたら一家全員が死にかけた状態でグッタリとしている状況にも出くわしたことがあるという。しかし、自分たちもギリギリの状態で生きているのでどうしてやることもできない、そんななかをなんとか生き残っていった。

 終戦から1年半が経ってようやく帰国。一家は山口県宇部市の親戚の家に身を寄せるが、それから先も貧しい生活は続く。山田監督は旧制宇部中学を経て旧制山口高等学校へ進学しているが、その学費を稼ぐため、農家の田んぼの草取り、こやし運び、空襲で焼けた工場の片付け、炭坑の坑木運び、進駐軍の病院の清掃など、さまざまなアルバイトをこなした。そこで出会った人々の記憶は、後の映画づくりにおいて重要な財産となった。そのなかには、あの寅さんのモデルになった人物もいるという。

 そんな戦争体験をもつ山田監督は、「ステラ」(NHKサービスセンター)2014年2月21日号のなかで、戦争に対する若者の認識についての危惧をこのように語っている。

「現在、戦争はこんなに恐ろしいものだって、学校でちゃんと教えられているとは思えない。それに、日本人の被害もひどかったけども、日本人は加害者でもあるわけだから、それはちゃんと教えなきゃいけないんじゃないのかな」

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