たとえば、職場の同僚と一杯ひっかけて帰宅すると、家で待っていた相手が“なんとなく”むくれているというのは、夫婦なら夫でも妻でもよくあること。そういうとき、食事を終えて少し仕事がしたくても口に出せず、“なんとなく”ふたりでテレビでも観たほうがよさそうな雰囲気だなあ……と判断することも、既婚者には日常のなかで多いのではないだろうか。こうした“なんとなく”の正体もまた、閉鎖型結婚特有の「心理的契約という全く風変わりなおきて」だという。それは、「「いつも一緒」というのは結婚で最も重要なこと」であり、「自分の個人的欲求をいつでも喜んで犠牲に供せねばならない」からだ。
夫婦を束縛する、結婚の「目に見えない契約」。──最初は愛情で克服できると思っていても、次第にフラストレーションは溜まるもの。これは『昼顔』でもさんざん描かれていることだ。子どももいないのに妻である上戸をママと呼ぶ夫にはいびつな所有欲が見え隠れするし、吉瀬が演じる妻はそれこそ閉鎖型結婚のストレスが爆発して、出会い系を通した節操のない不倫に走っていたともいえる。
そうした不幸な結婚を否定し、オニール夫妻は「開放型結婚」、すなわちオープン・マリッジを推奨するのだが、そこには前述した“浮気の公認”も含まれる。というのも、束縛し合う排他的な閉鎖型結婚では依存と不安が生まれ、嫉妬や疑惑をもたらしてしまう。それでは主体的で開放的な夫婦関係は築けないからだ。夫婦で関係性を閉じず、「互いに配偶者には見出せないものをもっている興味ある人びと」と関わることで、「二人は互いに相手の中にいつでも新鮮なものを発見することができるだろう」という。そして、オニール夫妻はこのように高らかに宣言したのだ。
「配偶者以外の異性に関心をもつたびに疑われるような、狭い意味で貞操というものを解釈すべきではない。開放型の結婚では、配偶者のほかに別の異性とだって愛情を分かち合い、楽しむことができる。そのような関係が逆に夫婦関係を豊かなものにするのである」(同書より)
これはいわば、「きょうはマリコさんという人とセックスしたら、これがじつに興味深かったんだよ」「そういえば、わたしもこのあいだシュン君という男の子と出会って、とても勉強になったわ」という会話が夫婦間で日常的に繰り広げられる……ということだ。いま、「そんなの上手くいくわけないじゃないか」とツッコミを入れた人は数多いと思うが、なんとこれを40年前に多くの人びとが実践したのである。
で、気になるのはその結果である。もちろん、オープン・マリッジがアメリカで市民権を得ることがなかったから日本に根付くこともなく、いまも昼顔妻のようなものが話題になっているわけだが、失敗の要因は意外なものだった。オープン・マリッジがうまくいかなかったのは、夫婦で“浮気数の競争”になったからなのだ。
社会学者ランドル・コリンズの『脱常識の社会学』(岩波現代文庫)によると、一般的とされる夫婦の場合、その収入差が関係に力を及ぼすように、オープン・マリッジを行った夫婦の場合は「他に何人の性的パートナーをもっているか」に依存するという。すなわち、「どちらが性的により好ましいかという競争」になってしまうのだ。こうした競争になったとき、いまも昔も社会では女のほうが勝つ。結果、男性は「分が悪く」なり、相手のほうが「得をしている」と思うようになる。「最初にオープン・マリッジをいいだすのはどちからといえば男性であるのに、それを終わらせたいと思うのも男性の方なのである」というから、皮肉な話である。