ハヴェルが定義した「ポスト全体主義」は安倍政権下の日本の状況そのものだ
報道圧力や言論の萎縮が取り沙汰されると、必ずと言っていいほど「圧力はない」「だったらなんでリテラが逮捕されないんだ」などとしたり顔で解説する輩が出てくるが、「検閲」も「弾圧」も、必ずしも目に見えるわかりやすい形で行われるわけではない。最初は番組責任者が政権や局の上層部から直接「ダメ」と言われたことが、「ダメと言われたよ」と伝聞で広がり、直接言われてない人にもプレッシャーとなる。そのうち誰も明確に「ダメ」などと言わずとも、「そういうこと言うのは良くない」と自己規制していくようになる。
番組では、共産党一党独裁体制下のチェコスロヴァキアで起きていた状況をハヴェルが「古典的独裁」とは一線を画すかたちで「ポスト全体主義」と命名していたことを紹介していたが、安倍政権下の日本で起きている事態はまさにこのポスト全体主義そのものといっていいだろう。
「全体主義というと、なにかこう独裁のピラミッドがあって、上の人が権力を持っている、そういう古典的な独裁とは違うというんですね。これは、「ポスト全体主義」だということを言っています」(阿部氏)
では、ポスト全体主義では、何が強制力を発動するのか。ハヴェルはポスト全体主義の根幹をなすのは「イデオロギー」だと言っている。ただし、阿部氏によると、ハヴェルの言う「イデオロギー」は、たんに政治主張とか主義とかそういう狭い意味の言葉ではない。
〈寄る辺なさや疎外を感じ、世界の意味が喪失されている時代にあって、このイデオロギーは、人びとに催眠をかけるような特殊な能力を必然的に持っている。さまよえる人びとに対して、たやすく入手できる「故郷」を差し出す。〉(『力なき者たちの力』)
これを信じていれば、故郷(ふるさと)や居場所が与えられる、それがイデオロギー。しかし、この故郷(居場所)にいるためには、「理性」「良心」「責任」という3つの対価を支払わなければならないとハヴェルは言っているという。
この解説を受けて、番組では伊集院と阿部氏がこんな議論をかわしていた。
伊集院「イデオロギーが故郷、そこに染まるにはこの3つを捨てろってことですよね」
阿部氏「理性(自分で考え判断すること)、良心(自分の心が訴えること)、責任(自分の行為に対する応答)。自分では考えなくて、これはこういうイデオロギーなんだから、というある種の言い訳になっているということですよね」
伊集院「全部思考停止しといたほうが、ふるさとにいれる」