「Eさんは生前の母に会ったことがないにも関わらず、交霊中のEさんの体を借りた母の立ち居振る舞いは私の知る母そのもので、おかしくて吹き出しそうになるほど性格も口調も仕草もそのままでした。いずれにせよ、Eさんを通した母との対話は時間にすると短いものでしたが、私にとって圧倒的な存在感をもった体験となりました」
どうやら、センセイは、“霊媒師”に母親との“交霊”をしてもらったことで、コロッと霊の存在を信じてしまったようなのだ。前後を読むと、矢作センセイはこのスピリチュアル系の本を書いていることもこの霊能師にしゃべっており、その際に「コールドリーディング」されたとしか思えないのだが、東大教授ともあろう人がこれだけで、完全に霊の存在を「確信」してしまったのである。
実は矢作センセイの母親は一人暮らしで、入浴中に心臓発作で倒れ、その遺体は死後3日後まで発見されなかったという。以来、ずっと自責の念に駆られていた矢作センセイにとって“母親の霊からの語りかけ”は救いであり、自分が信じたかったというだけだろう。
また、センセイは『人は死なない』では人間の智恵を超えた大いなる力を「摂理」を呼んでいるが、“科学を超えた摂理”の存在を感じ取るようになった要因のひとつとして、臨床医としての経験もあげている。
「大学で医学を学び、臨床医として医療に従事するようになると、間近に接する人の生と死を通して生命の神秘に触れ、それまでの医学の常識では説明がつかないことを経験するようになり、様々なことを考えさせられました。そうした経験のせいもあって、私は極限の体験をした人たちの報告、臨死に関するレポート、科学者たちが残した近代スピリチュアリズム関係の文献を読むようになりました。それらの事柄の総合によって、つまり、幼少時の直観が、臨床経験と文献の知識によって裏打ちされて、科学で説明できない大きく深いものへの感性ができたように思います」
臨床医のオカルトへの傾倒といえば、ある本を思い出させる。それはオウム真理教の地下鉄サリン事件の実行犯・林郁夫の手記『オウムと私』(文藝春秋)だ。
「私は臨床医の道を歩みはじめ、患者さんの死にも少なからず接して、もうこのころから、医学それ自体のある種の限界のようなものを感じはじめていました。(略)本来人間を丸のまま見ていく領域であるはずなのに、『生』を細分化することによって、あたかも肉体だけからなる人間が『死』にいたるのを押し止めるようにしているかのように思えました。『生』から『死』へと境界を越えようとしている人たちには、なにもしてあげることはできませんでした。医療の対象である『患者さん』も『生』と『死』が連続している人間なのですが、医師である私自身もまた、『死』については、なにもわかっていませんでした」
有能な心臓外科医がオウム真理教に入信し、治療省大臣という幹部に登りつめ、地下鉄サリン事件の実行犯となった半生を悔恨した一冊だが、林郁夫も「癌の患者さんなどに接する機会が増え、『死』について考えざるをえなかったことで」「現代の科学が避けていたり、あるいはただ考えていても解けないような問題を解決してくれる法則があるはずだ、それを追求したい」と意識し、父親の死をきっかけに「父はどこに転生しているのだろうと思い、死別することの苦しみをあらためて感じ、いまだ魂の転生を把握できない自分の修行のいたらなさが悔しく」やがて、オウム真理教に入信・出家することになるのだ。