コロナ医療現場を「警察24時みたいに中継しろ」と語る糸井重里に欠落している視点
もちろん、医療現場などの実態を伝えることはジャーナリズムの重要な役割だ。たとえば先日、イギリス・BBCが「日本の病院危機 新型ウイルスとの戦い」として、神奈川県の聖マリアンナ医科大学病院のコロナ専用の救命救急ユニットの現場をレポートし話題になっていたが、医療器具や個人用防護服の不足が現場に多大なストレスを強いていることや、逼迫する病床など日本の感染病体制の脆弱さを指摘する場面があった。こうした現場にいる人々の苦境や課題、訴えは、きちんと報じられるべきだろう。
しかし、糸井が言っているのはそういうことではない。「がんばっている姿を見たい」からスポーツ中継みたいに実況中継しろ、つまり、感動ネタとして消費したい、と言っているのだ。ことここにいたっても、あらゆるものを娯楽として消費する80年代的発想から抜けきれていないことに唖然とするではないか。
善意に解釈すれば、糸井は医療従事者やエッセンシャルワーカーを「スポーツ選手」「ヒーロー」のように扱えば、彼らにとっても応援になるとでも思っているのかもしれないが、それ自体がずれまくっている。
プロスポーツというのは自分の意思で肉体的能力を他者にアピールしたいと選手になった者が安全なルールの中で行う“ゲーム”にすぎない。しかし、コロナの治療や対策は本当の生命がかかっている現場、そしていまは資材や人員が枯渇し、崩壊寸前まで逼迫している現場なのだ。
そんなところに、スポーツ中継のようなテレビカメラを入れてどうするのか。医療行為を妨害し、従事者に無用な負担やストレスを与えることにしかならないのは、小学生でもわかる話ではないか。糸井は〈取材が邪魔になる場所については、うまく話し合って〉〈最小限の人数で、その現場の人たち以上の衛生管理でね〉などとエクスキューズを付けているが、そんなこと不可能だろう。
さらにもうひとつ問題なのは、糸井が自分の主張を具体的に説明するために、あの番組をもちだしたことだ。
〈「今日、いまも、こんなふうにはたらいています」
という「警察24時」的な方法で、番組つくれないかな。〉
「警察24時」といえば、典型的な警察PR番組。警察が抱える違法捜査や人権侵害などの問題点に一切触れることなく、警察をヒーロー扱いし公権力にとって都合のいい情報を娯楽として垂れ流すだけの、メディアと警察の癒着を象徴するような番組ではないか。糸井はそんなことはおそらく百も承知の上で、「『警察24時』的な方法で、番組つくれないかな」と言うのだ。
この発言からも、糸井が医療従事者やエッセンシャルワーカーの本当の現場を知りたいのでも、ましてや彼らの環境を改善したいわけでもなく、たんに医療従事者やエッセンシャルワーカーを娯楽として消費したいことが、よくわかるだろう。
しかも、そこには「患者」という存在が完全に欠落している。コロナの医療現場には、人工呼吸器をつけて生死の境をさまよっている患者、家族にも会えないまま肺炎症状に苦しんでいる患者が多数いる。そして、背負っている人生がある。それを「警察24時みたいに」って、糸井はあのテの番組の“容疑者”の扱い方と同じようにモノ扱いしようというのだろうか。