ほぼ日刊イトイ新聞 「今日のダーリン」
糸井重里がコロナ禍をめぐって再び呆れる発言を口にし、物議を醸している。
糸井重里といえば、本サイトでも報じたが、4月はじめに〈わかったことがある。新型コロナウイルスのことばかり聞いているのがつらいのではなかった。ずっと、誰かが誰かを責め立てている。これを感じるのがつらいのだ。〉〈責めるな。じぶんのことをしろ。〉などとツイートし批判を浴びたばかり。
安倍政権のコロナ対応は後手後手で場当たり的なのは言うまでもなく、弱者切り捨て政策で多くの人の健康と生活が危機に晒されているのだから、批判の声を上げるのはごく当然のこと。にもかかわらず、糸井は「責めるな」などと批判封じした。これには多くの批判の声が集まったが、糸井自身はまったく反省していないようだ。
なんと糸井は、大好きなスポーツ中継がコロナ感染拡大の影響で見られないことから、代わりに「医療関係者」らを実況中継しろ、と言い出したのだ。
今回はツイッターではなく、「ほぼ日刊イトイ新聞」の看板エッセイ「今日のダーリン」(4月26日)でのこと。
〈スポーツというスポーツが中止になっていて、
もともとスポーツを熱心に見ていた身としては、
大きななにかが欠けてしまったような気持ちでいる。〉
〈録画だとか再放送をたのしめばいいとも言えそうだが、
それがそうはいかない〉
などと、コロナの影響で多くのスポーツが中止になりスポーツ中継が見られないことに不満を吐露。コロナの影響により健康や生活の危機に晒されている人々が政府に対応を求める声を「責めるな」と説教していたのに、なぜか自分は「録画や再放送じゃダメ」と細かい注文をつけ始める。
それだけでもどうかと思うが、糸井にとっては、スポーツ中継は他人の生活の危機よりよほど重要らしい。スポーツ中継になぜこだわるのかその理由をこう並べ立てる。
〈スポーツ中継では、いま、じぶんたちと同じ時間に、
どこかでがんばっている人たちのことを見ていたのだ。〉
〈観客席やテレビの前にいて、無力で熱心なじぶんの前で、
いまあのチームが、あの選手ががんばっている。
そういう「ナマモノ」の活動が見たくて、
ぼくらは声援を送ったり感動したりしていたのだ。〉
〈のっぺりとしたぼくらの日常に、
全身全霊でなにかしている姿を見せてくれる。
これが観戦スポーツのおもしろさの真髄だったと思う。〉
スポーツファンの動機を「リアルタイムでがんばっている人を見たい」という説話論的なものに敷衍すること自体、違和感が拭えないが、糸井はこの単純化を前提に、スポーツが中止になったいま、「リアルタイムでがんばっている人」として、〈医療関係の皆さん〉〈保育に関わる皆さん〉〈インフラを守ってくれている皆さん〉〈行政に関わる人たち〉などを挙げる。そして、こんなふうに表現するのだ。
〈この人たちは、ライブな行動を禁じられたぼくらにとって
「全身全霊でなにかしてくれている」選手なんだと思う。〉
さらに、糸井はテレビ局にこんな提案を投げかけるのだ。
〈テレビ局の皆さん、人を減らしたスタジオで
限られた情報を元に床屋政談をしているより、
「いま懸命にはたらいている前線」のようすを、
ステイホームしている人たちに、伝えてくれないか。〉
こんな文章のなかにまでさりげなく「限られた情報を元に床屋政談」とか入れてくるところに、「政権批判封じ」の意図がにじみ出ているが、それはともかく、糸井は感染の危険に晒されながら、医療従事者や社会のインフラを維持するために働いている人々を「ライブな行動を禁じられたぼくらにとって『全身全霊でなにかしてくれている』選手」だとして、その様子をスポーツ中継のように実況中継しろというのだ。