「平成くん」と「終末期医療打ち切れ」対談に共通するもの
物語は、安楽死を考えていると平成くんから告げられ、それを受け入れられず翻意させられないかと思い悩む平成くんの恋人の視点で進む。そして、平成くんは、自分のSNSやテレビ、書籍での過去の発言のアーカイブをもとに自動回答する人工知能(スマートスピーカー)を残し、姿を消す。記憶、アーカイブがあれば肉体的には死んでも、死んでいないのではないか。これが小説のテーマのひとつになっていることは明らかだろう。
実際、この「死と記憶」の問題は、最近の古市が繰り返し主張していることだ。
たとえば「ananweb」のインタビューでも、「今は人が一人死んでもスマホがあれば、写真や動画など、その人の膨大な情報がアーカイブとして残される。平成という時代についても、すでに大量のアーカイブが残されていますよね。そういう意味で、今は人が死ぬことも平成という時代が終わることも難しい」と語っている。
なんとなく新しい時代に立ち現れた新しいテーマを見つけた気取りだが、しかし「死と記憶」の問題は、SNSやネットが発達する以前からずっとあるテーマだ。むしろ、他者にとっての死と自分にとっての死の間に横たわる深い溝や、記憶もまた永遠でないことに無自覚なまま、平気で「人が死ぬことは難しくなった」などと言ってしまえるところに、古市の薄っぺらさが表れていると言っていいだろう。
さらにインタビューでは、安楽死をテーマに小説を書いたことについて、オランダの友人が猫の安楽死について気軽に話していたというエピソードを紹介し、「ポップに死を決定できる世界もいいと思う」とも語っていた(この発言も地味に炎上した)。
ようするに、今回の小説は古市のこうした“死への浅薄な認識”から出てきたものだ。安楽死が認められるべきか否かも含め、死にまつわる議論はもちろんあっていいが、古市の言う「ポップな死」は、古市自身の死に関する願望や、個人の自己決定権を尊重するという話でなく、むしろ「他者の死をポップに」「周囲の人間の受け止めをもっとポップにしろ」という話だ。
「財務省の友だち」に聞いた話を根拠に、なんの深い思索もないまま「死の1カ月前に治療を打ち切れ」という主張をしたのとまったく同じ構図がそこに見て取れる。
というか、両者の相似性を見ていると、この小説も社会保障を削減したい財務省から終末期医療カット論を吹き込まれたことが大きく影響しているのではないか、とさえ思えてくる。
実は古市の1作目の小説「彼は本当は優しい」(「文學界」2018年3月号)にも、こうした傾向は見られていた。
「彼は本当は優しい」は、改憲が発議された近未来を舞台に、民放キー局の夜のニュース番組のキャスターを務める男性アナウンサーが、改憲論争が盛り上がるなか、母親ががんで余命を宣告されるというストーリー。作中では改憲投票と母親の死、北朝鮮の(日本への)ミサイル発射実験が同時進行していく。