『殉愛』と同じ手法で『日本国紀』を出版した百田と幻冬舎の無反省
K氏が訴えた裁判の口頭弁論を傍聴し、レポートしていた角岡氏にあらためて、百田の法廷での言動について、感想を聞いてみた。
「裁判で『殉愛』の虚偽が明らかになっていったこと自体は、私自身、この問題をずっと取材していたので、別段驚きませんでした。裁判で明らかになった嘘は、争点に関係していることだけで、あの本の問題はもっといろいろあります。ただ、裁判を傍聴してびっくりしたのは、百田氏のジャーナリズム、取材に対する意識の低さですね。私がブログで指摘した『殉愛』のずさんな取材や百田氏の虚偽の主張というのは、答えに窮してポロリ漏らしてしまったというより、百田氏が自分から堂々と語ったケースが多かった。原告側弁護士から指摘されても『それがなんで悪いの』という感じで、悪びれるところがまったくない。しかも、これだけずさんな取材や虚偽がはっきりしているのに、“裏を取った”“これは間違いないという確信を持って書いた”と、自信満々に言い切ってしまう。本当に取材や裏取りの意味、事実とは何かということをわかっているのか。こんな人が平気で自分の本をノンフィクションと称し、政治や歴史問題について発言していることにあらためて恐ろしさを感じましたね」
さくら夫人を「天使」として描く一方、たかじん氏の長女やK氏のことは直接取材もせず、さらには取材ノートにも記述のない言葉まで勝手に捏造して「悪人」「金の亡者」に仕立て上げる──。もはや『殉愛』は「ノンフィクション」などではなく、百田氏による悪質な誹謗中傷本であることが数々の裁判ではっきりした。
だが、問題は、こうした判決が下っても、百田氏と版元の幻冬舎にはまったく反省がみられないということだ。
『殉愛』は発売直後から、さくら夫人の結婚歴など虚偽の記述があることが指摘されてきたが、そんななかでも百田氏は開き直りつづけ、幻冬舎も何ら対応をとってこなかった。そればかりか、たかじん氏の長女の名誉毀損が認められた判決が確定した昨年12月以降も、幻冬舎は百田氏の著書を出版。そして、今月には「幻冬舎創立25周年記念出版」と銘打ち、百田氏による『日本国紀』を発売したのである。
『日本国紀』をめぐっては、発売後からネット上でWikipediaなどからの“コピペ疑惑”が指摘され、検証作業がつづいているが、問題はコピペ疑惑だけではない。
『殉愛』が一方的にたかじん氏の親族や関係者を貶める内容であることを裁判所に指摘されながらも、それを出版したことの製造者責任について何の説明もおこなっていない幻冬舎が、『殉愛』と同様に新聞広告を大々的に打って百田氏の『日本国紀』を売り出す、その行為自体が問題ではないか。
恣意的に嘘を書く人物が書く「日本通史」がベストセラーになるとは世も末だが、製造者責任など無視して百田氏と一体化しつづける幻冬舎にも批判が向けられるべきだろう。
(編集部)
最終更新:2018.12.02 09:52