自らのLGBTヘイト論文が休刊の原因のひとつなのに棚上げ
まずは現実を受け止めてほしい。小川サンは〈社長声明が発行3日目というのはいくら何でも早すぎる。自然発生的対処と考える方が無理ではないか〉(「iRONNA」)と書く。まあ、たしかになんの反省も検証もないままの社長声明や休刊は拙速であることは否めないし、「新潮45」は赤字続きで、上層部はいつ切ろうかと考えていたとは思うが、そのトリガーのひとつは、まぎれもなく、小川サンの醜悪な文章なのである。
なお、「iRONNA」のほうではその後、小川氏の文章を批判した文筆家たちのツイートを引用して、あーだこーだと書き散らしているのだが、小川サンは最後に〈それにしても、なぜここまで事は急激に運ばれたのか。拙文が普及してからでは廃刊クーデターが展開しにくくなるからではないか〉としてこう締めくくっている。
〈健全な民主社会を維持する根本は、言論が①ファクトに基づくこと、②言論のプラットフォームであるマスコミや出版社は、公平な媒体であることに徹し、自由な空間を死守することである。ところが、この自由社会の基幹というべき2点が数年、日本ではなし崩しに突き崩されつつある。
あの森友・加計学園問題を報じた朝日新聞による倒閣運動を日本社会は放置した。保守政権叩きでさえあれば、ファクトなど今の日本の大手メディアはもはやどうでもいいとの不文律が、これで出来てしまったと言える。
その上、今回の『新潮45』休刊での不可解な動きだ。朝日新聞と新潮社の「あまりに常識を逸脱した」行動で、日本社会はファクトもオピニオンの公平な提供も、全く責務として引き受けようとしない大手メディアによって、完全に覆われることになった。
日本は平成30年9月25日をもって、「言論ファッショ社会」に突入したという事にならぬかどうか──。実に厳しい局面に日本の自由は立たされている。〉
いやいや、何を言う。「ファクトなどどうでもいい」というのはまさに小川サンのことではあるまいか。