「休刊は尋常でない圧力を想定しない限り説明がつかない」と被害者ヅラ
一応、ひとつだけ補足しておくと、小川氏がいう「オスカー・ワイルド、(略)、これみんなホモだよ」についてだが、「新潮45」でも〈ましてやレズ、ゲイに至っては!/全くの性的嗜好ではないか〉としたうえで〈同性愛は知的にも美的にも優れた感性の持ち主に多い〉と書いている。これ自体、人の個性を性的指向で定型化し、偏見を助長する表現だが、さらに文章はこう続く。
〈ワイルドは投獄されたが、ここに挙げたそれ以外の大芸術家たちは歓楽も名誉も極めた。同性愛に厳しく対処してきたキリスト教社会でさえ二十世紀後半、既にそうなっていたのである。
何を今更騒ぎ立てるのか。
社会的な後ろめたさを全て除去したいとでもいうのか。〉
あまりにレベルの低い破綻したロジックだ。当たり前だが、ワイルドやジッド、マンらは“同性愛者”という性的指向によって「名誉を極めた」のではなく、その作品や文学性が評価されたのである。小川氏のやっていることはスリカエとしか言いようがなく、ここから読み取れるのは、ゲイであるワイルドらを賞賛するふりをしながら、LGBTに対する社会的抑圧の存在を矮小化したうえで、当事者に我慢を強要しているということだ。それも〈人間ならパンツを穿いておけよ〉(「新潮45」)なる極めて侮蔑的な表現によって。
いずれにしても、小川氏は番組中、常に意気揚々としており、いま、Facebookでわめいている〈私という「メインゲスト」を尊重する構成員を集めたものだったか、最低限の公平性を担保したものだったか、私から申し上げずともお分かりだろう〉なる話は被害妄想としか言いようがない。
ところが、である。小川氏の妄想はFacebookで終わることなく、28日にはオピニオンサイト「iRONNA」に「私を非難した新潮社とリベラル諸氏へ」と題した手記を寄稿。〈新潮社の月刊誌『新潮45』の休刊は、尋常ではない圧力を想定しない限り説明がつかない〉との書き出しで、陰謀論を恥ずかしげもなく表沙汰にしてしまった。
〈早急に必要なのは、この事実上廃刊に至る新潮社の不可解な動きの裏で、社内外で連携した何らかの組織動員的な圧力、スキャンダル圧力などが新潮社執行部にかけられていなかったどうかの真相究明だ。〉(「iRONNA」)
いや、だから、「何らかの組織動員的な圧力」とか「スキャンダル圧力」って何なのか。自分が書いた原稿が多くの批判を受けた状況に被害者ヅラで首をかしげ、そこに巨大な謀略があると思い込み、根拠もなく“ハメられた”と騒ぐ。こういうのを陰謀論というのだ。