しかし、そもそも、なぜASKAはたかだが見出しぐらいのことにここまで神経質になったのだろうか? 『インタビュー』のなかで彼はこのように綴っている。
〈音楽は、本人さえも気づかない大事なところ、自ら触れることのできないところへ作用する。作り手がどんなに一生懸命になって、聴き手の心の中に入り込もうとしても、聴き手が作り手を否定した場合は、もうなにも響かなくなる。
聴き手は無意識に自らの大事なところへ招き入れないように音楽をブロックしてしまう。
逆に強く受け入れた場合は、自分の選択に間違いはないと思い込みたいために、すべてを受け入れようとする。
これがよく言う「魔法をかける」であろう。
しかし、その魔法も、時代の流れや、その人の価値観にそぐわないものが見えてしまうと、一瞬にして解けてしまう。
回復は本当に難しい〉
現在のASKAの状況を考えると、なんとも意味深に聞こえる言葉ではないか。そういえば、ASKAはいま、逮捕騒動の顛末をまとめた告発本を執筆しており、そこでは、「なぜ尿検査にお茶を提出したのか」といった誰もが知りたがっている事柄に関しても明かしているという。
ASKAにとっては、この本が、20年前、新聞に出した「謹告文」と同じ位置付けということになるのだろうか。
(新田 樹)
最終更新:2017.11.15 06:07