ただし、今回の文春報道には、それ以上の論点がある、と私は思う。それは「日経」「AV女優」「父が学者」という華やかな記号に隠れて見逃しがちな、「鈴木涼美」という名前にある。鈴木涼美は『「AV女優」の社会学』の著者であり、同書は、わざわざ「東京大学大学院で執筆した修士論文をもとに加筆修正した」などともっともらしい但し書きまでついて、約2000円もする人文書である。問題は、著者である鈴木涼美は、「AV業界をうろうろしながら」と自らのAV出演の経験を留保して、本書を記していることである。確かに私はAV業界の友人や恩人らの協力を得てAV業界をうろうろし、本書を執筆するに十分な証言を得たが、一方で自分もAV女優としての経験を持っていた。AV出演の経験を持っていることは、AV業界の魅力や問題点を知るのに、圧倒的に有利だったのではないだろうか。その自分の優位性を1行目で告白しないことは、研究者倫理に照らし合わせてどうなのか、少なくとも書き手の姿勢としてどうなのか。読者への敬意に欠けるのではないだろうか。
確かに詳しく読んだ人は必ず「自分も出てたでしょ?」と著者に聞いてきたが、本自体にはAV出演の経験については一言も明記されていない。これは計画的なものである。私は修士論文から出版物に修正する際にも、AV出演経験が明らかに推測できるような記述を減らし、著者プロフィールにあえて「元AV女優」という肩書を付けず、結果的に「著者がAV女優をしたことがあるのか否かはよくわからないがなんか地味で真面目そうな」同書ができあがった。執筆の背景・動機に個人的な経験があり、それを特筆しない著者はいるが、その経験が本の印象を明らかに変える場合は、「何を書いて何を書かないか」は大きな問題である。私は「AV女優が動機を語る動機」について扱う同書に、私のAV出演の動機を意図的に記さないことにした。それは間違った判断であっただろうか。考え続けてはいるが、現在のところ、正しかったという確信はもっていない。
名著と言われるフィールドワークを元にした本は、例えば『暴走族のエスノグラフィー』(佐藤郁哉/新曜社)や『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィリス/筑摩書房)のように、現場に密着した研究者の記したものも、『搾取される若者たち』(阿部真大/集英社)や『ヤバい社会学』(スディール・ヴェンカテッシュ/東洋経済新報社)のように、著者自身が当事者となっている事自体を記述したものも存在するが、どれもある程度は自らの立場をはっきりとさせて出版されている。『「AV女優」の社会学』の著者は、「偏見を鑑みて」などという言い訳の裏で、どこかで自分の著作を読む偉いオジサンたちを「巨乳で馬鹿っぽいAV女優が書いたって知ったらどんな顔するの?」と嘲笑するような気持ちは持っていなかったと言えるだろうか。であるとしたら、これは大いに議論・批判されてしかるべき問題である。「日経記者がAV女優」であることよりも「鈴木涼美がAV女優」であることのほうが余程大きな問題を孕んでいる、と私は思う。
(鈴木涼美)
最終更新:2014.10.10 10:42