このような要望だけでなく、自分なりの強いこだわりもたくさんある大富豪たち。よって執事は、彼らの子どものような無邪気さに振り回されることも多々ある。仕事への集中力を下げたくないという理由で「三六五日すべてが同じ色のカレンダーをつくってくれ」と言ったり、「すべての時計は一秒たりとも狂わせてはいけない」という指示を出したり……この時計の指示を受けたときは、家電の内蔵時計も含めて、別荘中のありとあらゆる時計をジャストタイムに合わせるために奔走したこともあったという。
そんな執事の苦労を尻目に、「エーゲ海のクルージングも楽しかったし、ニュージーランドのヘリスキーも面白かった。でも今年一番ワクワクしたのはアラスカでのフィッシングだったよ」などと休暇中の出来事を語る大富豪。普通の人間なら「知るかよ!」「人の気も知らないで!」とキレそうなものだが、それでは執事は勤まらない。むしろ執事は、興奮気味に話をする大富豪の様子に、苦労も吹き飛んでしまうのだろう。まるで幼い子どもを温かく見守りながら「これこれ、いけません」とたしなめている爺やのようで、その構図を想像するだけでもたまらないのではないか。
しかし、こんなに余裕があって完璧に見える執事でも、失敗することはある。著者がまだ執事を始めて間もないころ、主人に「ジュースがほしい」と言われ、パックのジュースをグラスに注いで出したところ、一口飲んで「これは違うだろ」と注意されてしまったことがあったそうだ。大富豪のいう“ジュース”は、ハンド・ジューサーで絞ったフレッシュジュースのことで、それ以外は認められないのだ。また、アウターよりも直接触れる肌着にお金をかけるという大富豪たちは、一着10万円以上するシャツを身に着けている。そんな洋服なので、本当に大切なものは手洗いや高級品専門の洗濯屋に出すそうだ。そうとは知らず、「これ、洗濯に出しておいて」と言われたワイシャツを普通のクリーニングに出してしまい、「八万円のワイシャツが、五○○○円のワイシャツになっちゃったよ」と皮肉まで言われて、嫌な汗をかいた経験もあるという。──いくら大富豪に仕える執事といえども、もともとは一般人に近い感覚を持った普通の人。失敗をして内心大慌ての駆け出し執事を思い浮かべるだけでもニヤニヤがとまらない。常に優雅なイメージの執事が、ドジっ子属性まで兼ね備えていたとすれば、そのギャップに萌えないはずがないだろう。
こんな執事が四六時中そばにいては、萌え死んでしまうかもしれない。そんな無駄な心配さえしてしまうほどに、リアル執事はフィクション以上に乙女の願望を叶えてしまう存在のようだ。とはいえ、大富豪にでもならなければ雇えそうもないのだが……。ぐぬぬ。
(田口いなす)
最終更新:2014.09.16 08:03