映画『Fukushima50』が描かなかった東京電力が“1号機爆発”を官邸に隠した事実
なかでも、映画『Fukushima50』の最大のデマが、「菅首相が事故現場の原発に直接乗り込んできたことでベントが遅れ、被害が拡大した」というストーリーだ。
これは、自民党やその後の安倍政権と応援団によってさんざん垂れ流された話だが、実は、事故調査委員会の報告書で完全に否定されている。まず「ベントを待て」という指示は官邸とは無関係に東電本店が勝手にやったものあること、そもそもベントの遅れ自体が、菅の視察とは関係なく手動の準備に時間がかかったためだったことが判明しているのだ。
しかも、この映画では、菅が直接、福島第一原発に乗り込む原因になった、東電本店の問題について一切触れていない。当時、菅は東電本店にベントが遅れている理由を訊いたが、東電はまったく答えられなかった。こうした東電の姿勢に不信感を持ち、菅は周囲の反対を押し切って現地入りを決めたのである。
また、3月12日午後に1号機が爆発したことは、東電側はもちろん把握していたが、官邸に報告しなかった。爆発音があったという情報を受けて、官邸は東電から派遣されていた武黒一郎フェローに事実を確認したものの、武黒フェローは「そんな話は聞いていない」と否定した。結局、官邸が爆発を把握したのは、日本テレビが流した映像を観たときだった。
ところが、映画ではこうした東電の酷い実態についてはまったく触れず、菅がまるでパフォーマンスのために現地入りして、ベントを遅れさせたかのように描かれているのだ。
もちろん、菅直人に問題がなかったわけではない。“イラ菅”と呼ばれる性格丸出しに側近や東京電力幹部、官僚らを怒鳴りあげ、自由な発言を封じ込める行動は、民間事故調査の報告書でも「関係者を萎縮させるなど心理的抑制効果という負の面があった」という言葉で批判されている。
しかし、原発の危険性や東電の責任をことごとくネグる一方で、当時の首相を徹底的に悪者に描くことで、その責任の大半を菅直人に押し付ける映画『Fukushima50』の描き方は、ある種の政治的な意図をもった誘導、ミスリードとしか思えない。
こうした指摘をしていると、「あんなトランプデマを平気で垂れ流す門田氏の原作だから当然そういうことになるだろう」と考える人がいるかもしれないが、実は当時の門田氏の政治的スタンスはいまほど露骨ではなく、この『死の淵を見た男』も、菅直人を批判しながらもきちんと取材をし、映画のようなデマを一方的には書いていない。
むしろ、デマの既成事実化、ミスリードという意味では、映画『Fukushima50』のほうがはるかに悪質なのだ。