「政府が認めたものだけが芸術」志らくが開陳した独裁国家の検閲官並みの芸術観
「津田さんがおっしゃるとおり、いろんな人が考えるというのはこれはものすごい大事なことで、それは大事なことなんだけども、でも、みんなが、みんなって言っちゃおかしいんだけども、陛下の写真を踏むとか、それから、日本においてあの慰安婦像、向こうでは平和の像とは言われてるけども、これだけ政府がまだ認めていないものを芸術だって言い張っちゃうと。たとえば言論の自由を認めれば何言ってもいいんだけど、何言ってもいいからといって、人のこと誹謗中傷しちゃいけないっていうルールのなかでやってるじゃないですか」
大浦氏の「遠近を超えてPartⅡ」やキム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏の「平和の少女像」を「誹謗中傷」と言ってのける読解力のなさも相当だが、「政府がまだ認めていないものを芸術だって言い張っちゃうと」なる発言こそ、本性が露わになったと言わざるを得ない。つまるところ、志らくは普段、尊大なまでに「俺は正論を吐いている」というポーズをとっているが、自覚の有無にかかわらず、結局は“お上”を忖度しているにすぎないのだ。
いや、単なる忖度よりもタチが悪いかもしれない。この落語家は「政府が認めたものだけが芸術だ」と考えているだけでなく、国家権力による表現弾圧を積極的に肯定、扇動すらしていたからだ。討論のなかで、文化庁の交付金取り消しの決定について触れた志らくは、実にこう口走った。
「私が思ったのは、萩生田さんでしたっけ? 自民党のほうが、手続きの問題で交付金を出さない、と。あれはちょっと卑怯だと思ったんですよね。はっきり言えばいいと。自民党なりの国の考えを。こういうヘイトを含むものを芸術としてやるならば、国は金を出しませんよと。そうはっきり言ってくれれば、それに対してまた、いろんな意見が出てくるんだと思うんだけど、手続きで逃げたと」
たしかに批判を避けるため手続き問題にすり替える政府のやり口は「卑怯」だが、つまるところ、志らくは「自民党が認めないから金は出さないとはっきり言え」と公器たるテレビで煽っているのだ。しかもヘイト(=差別)の意味を誤用した「日本ヘイト」なるネトウヨ論理に乗っかって。
こんな滅茶苦茶な発言が許されれば、それこそ「公金を受け取ったら政府の命令どおりのプロパガンダをつくれ」とか「生活保護を貰うなら一切文句を言うな」というネトウヨ言説がどんどん加速していってしまう。最終的に行き着くのは、「公共のサービスを受けているのだから、政府を批判するな」というような言論管理社会だ。もはや、この人が本当に言葉で飯を食う落語家なのかすら怪しく思えるではないか。
もう十分だろう。なるほど、「子どもの虐待映像を認めるのか」なる筋違いの批判を繰り返すわけである。ようは、この人は表現の自由について語る前に、なぜその権利の保障が民主主義国家の最低条件であるかをまったくわかっていないのだ。