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志らくが津田大介との“あいトリ”生討論で露呈した“お上忖度体質” 「慰安婦像は政府が認めてない」と独裁国家の検閲官なみ芸術観

「明治憲法における最高権力者たる昭和天皇」と「虐待される子ども」を同列に語る志らくの不見識

 まず、「昭和天皇の肖像を焼く映像」と「子どもの虐待映像」はまったくの別物である。昭和天皇は大日本帝国憲法における最高権力者、公人中の公人であり、戦中そして戦後を含む日本のもっともシンボリックな存在だ。かたや、「津田氏の子ども」(実際にはいないが)は誰がどう見ても私人であって、しかも虐待は当たり前に犯罪である。それを同列に並べて「どちらも表現の自由なのか」と聞くこと自体、馬鹿げているとしか言いようがない。

 そもそも大前提として、表現の自由は本来、国家権力から個人を守るための権利だ。志らくが叩いてみせる「誰をも無制限に傷つけてよい権利」では決してない。というか真逆で、いわば「傷つけるもの/傷つけられるもの」の非対称性(強者と弱者の関係、たとえば権力構造はその代表である)に抗するためのものだ。

 志らくが得意げに語っているのは、単に「ある行為がある人にとって不快であったときにはそれをやめなさい」ということにすぎない。通俗的な道徳の話としてはありえるが、実のところ、表現の自由の議論の根底にすら触れていない。たしかに表現の自由は無制限ではないが、「快/不快」のみを根拠に封殺されることがあってはならない。むしろ、表現の自由は言論と反論、報道や出版、芸術表現、政治活動や結社などの基盤をなす概念であり、それらによって人々の討議が喚起されるからこそ、近代民主主義社会の最低条件なのである。

 津田氏もまた、こうした表現の自由の基本的考え方を念頭に「自分自身が不快になるかということと、表現の自由の範囲であるかということは別の問題だと思います」などと返したのだが、それでも志らくは「悲しむ人がいっぱいいる」などと繰り返し、あげく「それをやりたいというのであれば、自分のお金でやればいいじゃないですか。なにも税金使う必要ないんじゃないんですか。その一点ですよ。なぜ税金を使ってやるのか」と、今度は税金を使ってやるのはまかり通らんと主張し始めたのだった。

 これもまたネット右翼が連呼している内容そのものだ。本サイトではすでに反論しているが、志らくのためにもう一度言っておこう。まず、作品の政治的スタンスを公権力が解釈し、補助金支出の可否を判断するのは、憲法で禁じられた検閲そのものだ。表現の自由は、国から補助金をもらっているかどうかとはまったく関係なく保障されねばならない。なぜならば、「国から金をもらっているのだから国の言うことを聞かねばならない」という論理がまかり通れば、表現文化が死滅するのはもちろん、一般の市民生活にも多大な抑圧をもたらすからである。

 志らくは番組のなかで、一応、「私もいろんなものを表現するということは、これは国が規制してはいけないと思うんですよ」と述べていたが、これは予防線にすぎない。事実、その後に続く言葉は、あきらかに「政府が認めたものだけが芸術だ」という、まるで独裁国家の検閲官のような呆れた“芸術観”をさらけだすものだった。

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