神山清子の父は炭鉱で働かされた朝鮮人の脱走を手助けしたとして警察に追われ信楽に
神山清子氏の父は、そうした朝鮮人の人々をかばうなどしていたようだが、それが逆に、一家が佐世保から出ざるを得ない原因になってしまった。
〈清子の姓は、金場といった。朝鮮の人と似ている姓だったせいか、学校で「やーい、朝鮮!」と言ってからわれたり、いじめられたりした。
「どうして、私、日本人なのにいじめられるの?」
と、何度もなずねる清子に、父はこう答えた。
「いじめられたら、言い返してやれ。朝鮮人だろうが、日本人だろうが、人間にかわりはないとな」
その後、厳しい労働に耐え切れなかった朝鮮の人が、炭鉱を脱走しようとしたのを手助けしたといって、警察に追われた父は、一家を連れて炭鉱の町から逃げ出したのだった。
行く先々で清子たちをかくまってくれたのは、朝鮮の人たちだった。〉(『母さん 子守歌うたって』)
朝鮮人への差別を物語るエピソードだ。実際、国内の各地炭鉱などで苛烈な労働と悪環境、差別や暴力に耐えられなくなった朝鮮人労働者が、脱走したり抵抗を試みたという記録は、公的文書によるものも含めて残っている。
また、長崎関連の記録を紐解いてみると、一家がいたという佐世保でも、池野炭鉱、中里炭鉱、相ノ浦炭鉱 、柚木炭鉱など複数炭鉱で、朝鮮から連れてこられた人々が働かされていたことがわかる(竹内康人・編著『戦時朝鮮人強制労働調査資料集 増補改訂版』神戸学生青年センター)。
証言も残っている。たとえば、当時、日鉄鉱業池野炭鉱の炭鉱婦だった女性によると、1944年ごろには、働いていたのは朝鮮人ばかりになっていたという。女性は、朝鮮人たちが置かれた環境をこのように振り返っている。
〈炭坑労働者の朝鮮人は、「半島」「半島人」と呼ばれ、それはもうとてもかわいそうでした。今思い出しても、涙が出ます。一番あわれなのは、食べ物がないことです。小さい粗末な木の箱の弁当箱の中身に米はない。シャギ麦というか、つぶし麦ばかりで、おかずはタクアン五、六きれだけです。〉
〈食べ物がなくて、腐ったみかんを拾って食べている朝鮮人を、憲兵がひどくなぐっているのを見たことがあります。どんなに体の具合が悪くても、休ませなかった。あるとき、四〇過ぎの朝鮮人労務者が、とても疲労がはげしくて「少し、上がらせてくれ」とたのんだが、聞き入られなかったので、風洞の中へ入った。それを見つけて引っぱられたが、一晩で顔の形相が一変してしまいました。それははげしいリンチを受けたからだと思います。〉(『原爆と朝鮮人 長崎県朝鮮人強制連行、強制労働実態報告書 第5集』長崎在日朝鮮人の人権を守る会)