中学生だった黒澤明の目の前で、父親が「朝鮮人だろう」と棒を持った人に囲まれ…
また、世田谷で被災した詩人で女性史研究の先駆者である高群逸枝は、朝鮮人を敵視する人々の様子を目の当たりにし、その差別意識に辟易して〈いわゆる「朝鮮人」をこうまで差別視しているようでは、「独立運動」はむしろ大いにすすめてもいい〉と思ったという。当時の状況をこう記している。
〈二日(夜)
夕方、警告が廻ってきた。横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約二百名のものが襲来しつつあると(もちろんデマ)。〉
〈[略]隣の植六さんが、朝鮮人があぶないから、いっしょに集まって、戸外に蚊帳を釣って寝めといいにきた。朝鮮人よりも地震がおそろしいと家人がいうと、六さんは私の夫に、
「ねえだんな、地震はもう大丈夫ですね。それより朝鮮人がなんぼか恐ろしいですね」
という。
なみ夫人は、
「朝鮮人がきたら柿の木にのぼろう。私は木登りがうまいから」
と真剣な顔でいう。
それにしてもこの朝鮮人一件はじつにひどいことだ。たとえ二百名の者がかたまってこようとも、これに同情するという態度は日本人にはないものか。第一、村の取りしまりたちの狭小な排他主義者であることにはおどろく。長槍などをかついだり騒ぎまわったりしないで、万一のときは代表者となって先方の人たちと談じ合いでもするというぐらいの態度ならたのもしいが、頭から「戦争」腰になっているのだからあいそがつきる。〉
他にも、昨年の9月1日に際した記事でも紹介したが、中学2年時に被災した黒澤明も当時をふりかえるかたちで、朝鮮人虐殺について証言している。いま一度、自伝『蝦蟇の油』(岩波書店)から引用しておきたい。
黒澤は〈髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往するのをこの目で見た〉という。そして、朝鮮人を追いかけ、殺して回ろうとする人々が、日本人も「朝鮮人」として暴行を加えようとした現場にも立ち会っていた。
〈焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。
私はドキドキして一緒だった兄を見た。
兄はニヤニヤしている。
その時、
「馬鹿者ッ!!」
と、父が大喝一声した。
そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。〉
疑心暗鬼にかかった群衆が、「怪しい」と思った人間を見つけ次第「朝鮮人」として殺しにかかった。それはすなわち、朝鮮人が実際に暴動や放火を起こしたかどうかではなく、「朝鮮人」という属性やレッテルで虐殺の対象となったことを意味している。