音楽教室、京都大学の式辞……次々に起きるJASRACがらみの炎上
少数の人に支持されるアート系作品をかけられる劇場が減り、結果として、そういった作品を好む目の肥えた若い映画ファンも育っていかない。そんな悪循環は映画の「多様性」を失わせていくことにつながる。ただでさえミニシアターの状況は厳しいのにも関わらず、今回のようなJASRACの動きは、映画業界におけるこの傾向を押し進めることになるだろう。
JASRACの懐が温かくなるのと引き換えに、この国からは大手シネコンでかかる大作映画以外は上映する場所がなくなっていく──そんなことで本当に良いのだろうか?
今回のJASRACのやり方は日本の映画業界の実情をあまりにもかえりみない横暴なものである。
しかも、ご存知の通り、JASRACがこういった強引なやり方をとるのは今回が初めてではない。
その最たるものが、音楽教室から著作権料をとる方針を発表し、多くの批判を浴びた問題だろう。これに対しては、宇多田ヒカルが〈もし学校の授業で私の曲を使いたいっていう先生や生徒がいたら、著作権料なんか気にしないで無料で使って欲しいな〉とツイッターに投稿するなど、アーティスト側からも疑問の声があがった。
この音楽教室問題に関しては、今年9月、ヤマハ音楽振興会など音楽教室を運営する約250の団体により、JASRAC側には徴収する権利がないことの確認を求めた訴訟の第1回口頭弁論が東京地裁で開かれている。このなかでJASRAC側は「一円たりとも創作者に還元しないのは極めておかしい」と主張し、意見が真っ向から対立している。今後も争いは続いていくことになるだろう。
また、「教育と著作権」の問題でいうと、今年5月に起きた京都大学の式辞に関する騒動も記憶に新しい。京都大学のホームページに掲載された山極壽一総長の入学式の式辞に、ボブ・ディランの代表曲「風に吹かれて」の歌詞の一部が引用されているとして、JASRACが大学側に対し楽曲使用料が生じると指摘していた旨が報じられたのだ。
この件は大炎上した挙げ句、JASRAC側はこの件に関しては頑として徴収を訴えるようなことはなかったが、引用した出典の記載もあり、どこからどこまでが引用なのかの区分も明確で、「自己の創作部分が主であり、引用部分が従であること」という引用の要件も満たしている式辞に対して威嚇のような指摘をしていたということには、各方面から驚きの声が漏れた。