“どっちもどっち”論に侵され権力批判ができないマスコミ
その意味でも、トランプの差別主義擁護の姿勢は、アメリカの問題というよりも、日本社会でこそ考えられるべきトピックだ。それは、その国で生活する個人個人の問題でもあるし、それだけでなくメディアの姿勢の問題でもある。
たとえば、日本のメディアは「公正中立」に遠慮して、欧米と比べて政権への批判がかなり弱い。よしんば、政府の政策や態度を問題視する報道をしても、セットで必ず政府の言い分を垂れ流す。そして、生活者もその態度をさほど疑問視しない。それどころか、政権批判の報道に対して「偏向だ」「反日だ」などと素っ頓狂なことを吠え出す人たちも少なくない。安保法制にしても共謀罪にしても、あるいは森友問題、加計問題にしてもそうだろう。これはおかしいのではないか、彼らに政治家としての資質はあるのかと、メディアは一応ツッコミを入れるものの、ほぼ確実に同時に政権をフォローする。
この権力に対する姿勢も、一種の“どっちもどっち”だろう。考えてみてほしい。私たち生活者と政治権力のどちらが力をもっているのか。圧倒的に政治権力のほうだ。ゆえに、わたしたちが絶えず権力をチェックし、その姿を批判的に検討していかなければ、社会はたちまちお上のやりたいように動いていく。とりわけ、近年の安倍政権は一強体制と言われるぐらい永田町でも霞が関でも強大すぎる権力を握っている。安保の例を出すまでもなく、どんな反対運動があっても強引に法案の成立を許してしまうほどには、すでに日本社会は相当いびつな状況になっているのだ。
先に“どっちもどっち論”の特徴は、弱者と強者の関係を顧みないことだと指摘したが、まさに、政治権力に対する日本のマスコミ報道というのは“どっちもどっち”である。何度でも繰り返すが、その意味でも、今回のアメリカでの白人至上主義と抗議運動をめぐるトランプ発言、それをめぐる米国メディアの報じ方、そして米国の人々の反応にわたしたちが学ぶべきことは多い。少なくとも、“どっちもどっち論”に侵された日本社会の特異な状況について、ひとりひとりが積極的に見直す契機とするべきだろう。
(編集部)
最終更新:2020.11.08 08:11