ヘイトデモ、沖縄基地反対運動で横行するトランプ的“どっちもどっち”論
実際、米国内と比べると、このトランプの差別主義肯定発言に対する日本メディアの追及はかなり鈍い。それだけでなく、テレビニュースでは、車で突っ込んで死傷者を出した陣営が、白人至上主義側の関係者であることを報じないケースまで散見された。繰り返すが、アメリカでは、大統領が差別主義者と抗議側を同列に扱ったことで、その地位が揺らぐ大問題になっているにもかかわらず、である。このギャップはいったいどういうことなのか。
しかし、考えてもみれば、トランプの言うようないびつな“どっちもどっち論”は、日本の近年の差別主義団体によるヘイトデモと、それに抗議するカウンターたちをめぐる報道のされ方にも如実に表れていた。
たとえば2013年には、当時、東京の新大久保などでヘイトデモを繰り返していた在特会とその関連団体に対し、有志の人たちや「レイシストをしばき隊」などが集まって、差別反対の声をあげるカウンターの動きが大きくなっていた。その後、カウンター行動が功を奏し、大規模なヘイトデモを抑制することになるのだが、メディアのなかには、このヘイトデモとカウンターを同列に扱って“どっちもどっち論”をぶつものが少なくなかった。
そのひとつが「ニューズウィーク日本版」(阪急コミュニケーションズ)14年6月24日号に掲載された〈「反差別」という差別が暴走する〉という記事だ。記事は、“差別的な言論を暴力をもって押さえ込むカウンターの手法は「憎悪の連鎖」を生むだけではないか”“日本は独り善がりの「正義」と腕っ節ばかりが支配する息苦しい国になるのか”などと、“どっちもどっち論”を使ってカウンター行動を酷評するものだった。
あるいは、沖縄米軍基地をめぐる抗議活動もそうだ。高江のヘリパッド建設に反対する人々に対し、これを“鎮圧”するために送り込まれた機動隊員が「土人が」と差別発言をしたのは記憶に新しい。本土による沖縄の差別的扱いがこれでもかというほどあらわれたかたちだが、本土の一部メディアやネットでは、逆に新基地反対運動に対して、「反対派は過激な運動で迷惑をかけている」「反対派だって暴言を吐いている」などといった“どっちもどっち論”が絶えない。
改めて強調しておくが、こうした“どっちもどっち論”は、本来、並べるべきものではない両者をわざと同じように扱うという、典型的なミスリードだ。言うまでもなく、人種差別の問題にしても、基地建設の問題にしても、弱者と強者ははっきりしていて、差別される側、あるいは有無を言わさず近隣に基地をつくられる側が圧倒的弱者である。日本社会にはびこる“どっちもどっち論”は、その前提を完全に無視することによって、なぜ抗議する人々がこれほど大きな声をあげているのか考えることをやめる。しかも、彼らは、さも高みから見物するように“どっちもどっち論”を唱え、抗議活動などを冷笑することこそが、クレバーで正しい意見かのように振舞っているから、一層たちが悪い。
また“どっちもどっち論”は、ただ社会問題についてのコミットメントを拒絶しているわけではなく、ましてや、まったく冷静な意見を述べているわけでもない。結局のところ、彼ら“どっちもどっち論者”は、差別を温存して、弱者を踏みにじる側についているだけだ。今回、アメリカでトランプの発言がこれだけ批判をあびているのも、まさにこの“どっちもどっち”が内包する問題を、多くの人が認識しているからだろう。