手塚治虫が最晩年に残していたメッセージ
戦争を体験したからこそ、生命に手塚はひときわ思いを馳せた。そして、それぞれの命がお互いを尊重し合い、一緒に生きていくことの尊さについて、彼は作品を通じて読者に語りかけていった。
だが、時が経ち、戦後の絶望的な状況から復活すると、日本人は大切なことを忘れ、増長していった。前掲の『ぼくのマンガ人生』は、1986年から1988年にかけての講演記録をもとにして編まれたものだが、最晩年(手塚は1989年2月9日に死去している)の彼は、そういった変わりゆく日本人の心に憂慮していた。
〈みなさんにお願いがあります。みなさんはそういう国際社会の中で、日本の立場というのをどういうように思っているでしょうか。ぼくたちが若いころは、国際社会の中で孤立していたのです。戦争で負けて、国連に入るのも、それから一〇年ぐらい経ってからです。世界中でこんなに貧乏な国はないとか、こんなに幼稚な国はないとか言われていたのです。それが四〇年の間に、こんなに立派な国になってしまった。いわば成り上がりです。みなさんが生まれたときにはすでに立派だったかもしれませんが、ほんのわずかのあいだに発展した国なのです。これをよく覚えておいてもらわないと困ります。
外国を訪れた日本人は案外威張ります。「アメリカはたいしたことない。知能水準も低い」とか、「東南アジアは貧しいし、不潔だ」と言ったりします。これは困ったことです。これから世界中の人たちと手をつなぎあっていくうえでは、みなさんは謙虚に、控えめに、人間らしくつきあっていってほしいのです。けっしていばらないこと、これだけは約束してほしいと思います〉(前掲『ぼくのマンガ人生』)
手塚の講演から30年近くの時が経ち、日本の世界における経済的立ち位置は坂を転げ落ちるように低くなっているが、中国や朝鮮をはじめとした人々に対するレイシズムがはびこって止まない事態が象徴する通り、他国を見下し、いばりくさった態度は現在でもなにも変わっていない。むしろ、手塚が嘆いていた時代よりもひどくなっていると断じてもいいだろう。
その態度の果てに、命の軽視があり、戦争があるのは言うまでもない。1945年に手塚が大阪で見た地獄のような光景をもう二度と再現させないためにも、いま改めて手塚のメッセージに耳を傾けることには重要な意味がある。
(編集部)
最終更新:2018.10.18 03:32