曽野綾子はいじめ自殺被害者にまで自己責任論を……
〈たしかに、がんばることは大切です。
生きていると、誰でもがんばらないといけない場面、無理をしないといけない場面に出くわすことはあります。
仕事で多少無理をしてでもがんばった結果、成功を手に入れた人の話を聞いて「自分も、もっとがんばらなきゃ」と思っている人もいるかもしれません。
しかし、がんばり続けて、プツンと切れてしまう人も多々います。
日本では年々過労死する人が増えています。厚生労働省のデータでは2015年に過労死・過労自殺した人の数は482人にのぼりました。
(中略)
そこで、がんばり続けてうまくいく人と、プツンと切れてしまう人には、どのような差があるかを考えてみましょう。
①「がんばっていることが自分自身で決めたことかどうか」
②「がんばったことの成果が分かりやすいか」
というのが重要な要素になります。
(中略)
①と②が当てはまらないうえに長時間労働を強いられている場合、注意が必要です。この状態でがんばり続けると、精神的に大きなストレスを受けることになるからです。〉
前述したように、本田のツイートには疑問の声が多く寄せられて炎上したわけだが、一方で、彼の意見に同調する者も少なからず存在した。本田の炎上騒動を話題にしたネット掲示板では、〈自殺する若い奴は責任転嫁の卑怯者〉という書き込みも見受けられた。
このように、自殺を「自己責任」の一言で片付けるのは本田だけではない。たとえば、曽野綾子もそうだ。彼女は「週刊ポスト」(小学館)15年9月18日掲載の連載エッセイのなかで、15年7月に岩手県矢巾町の中学二年生の生徒がいじめを苦に自殺した事件を取り扱っているのだが、彼女はその原稿で、本田と同じ〈政治のせいにするな〉論を展開している。
〈こういう場合に、学校の責任が問われだしたのは、ごく近年のことのような気がする。戦前には、誰が自殺しようと、人権とか学校の責任とか言う人はなかった。それはあくまで当人の選んだ行為であり、もしそれが貧困から来る辛さであっても、政府や社会の怠慢という発想は皆無で、あくまで子供をそんな境遇にしかおけなかった親の責任であった。〉
また、これに続けて彼女は、あろうことか、いじめが嫌だったのならやり返せばよかったとまで綴っている。
〈いじめもまた人間関係の一つの姿である。いい方法ではないと思うが、昔から、ことに男の子たちは、幼時に大なり小なりのいじめに遭って生きて、そのおかげで自分自身と他人と戦う方法も、争いを避ける方法も覚えてきたのだ。
(中略)
食事中に教科書を投げつけられれば、汁がこぼれて教科書が汚れるだろう。しかしたかが教科書だ。机に頭を押さえつけられるのは屈辱だが、その場合は手を振り回して、できれば相手の顔をひっかいてやればいい。消しゴムを投げつけられたら、家でうまく投げ返すこつを練習することだ。朝会時に列に入れなければ、わざと脇に立ち続けて見せる。清掃時にほうきをぶつけられたら、これも投げ返す。
(中略)
いじめを撲滅するには、個人の戦意も要る。学校が制度を作って生徒を守っても、卒業したその日から、世間は生徒だった子供を守ってはくれない。いじめは、電車の中にも、マーケットにも、銀行にも、どこにでもある。一番ひどいものは恐らく職場にあり、時には結婚生活にもあるだろう。一生それらと戦い続け、そのうちに素早くうまく和解して生きる方法を人は見つける。〉