その時期のくるりは、クラシック音楽との融合を画策し、後に屈指の評価を得るアルバム『ワルツを踊れ』のレコーディングの準備をしていた。これまでの音楽性からガラリと変わる、その急激な変化に大村は付いて行くことができなかった。年が明けた07年2月にはウィーンでのレコーディングが予定されていたのだが、その前に今後の去就について話し合いがもたれることになった。佐藤はこう振り返る。
「繁くんの曲の作り方が、本当にこれまでと全然違ったんですよ。コード進行があってメロディを決めるんじゃなくて、たくさんのメロディからコードが決まるみたいな、そういう作り方をしてて。普通に考えたら、ギターっていう楽器がものすごく入り込みにくい曲作りで。そこでどうしたらバンドの中で自分の音が出せるやろうっていうところで、かなり追い詰められてるのがわかって。譜面からやるっていうのも、達身さんのギタリストとしてのプレイング・スタイルからかけ離れていたもんやったから。そうじゃなくても、どう考えても2月からのレコーディングは僕ら全員にとって過酷なものになるのはわかってたから、ウィーンに行く前に決断したほうがいいんじゃないかなっていう空気が、僕と繁くんにも、達身さん本人にもあったと思うんですよ。それで、プリプロをやってる東京のスタジオで話を切り出した時に、すごくすんなり『俺もそう思う』って……」
岸田も当時の状況をこう振り返る。
「『やっぱりくるりは繁と佐藤のバンドやから』って、その時に達身さんは言ってました。でも、俺らが作る作品の順序が違ってたりとかしたら、全然違う話やったと思うんですよ。ただその時の俺らというか、俺は、完全に考え方が作品重視になっていて。あまりにもやりたいことがはっきりしていたから。考えてみれば、すごく勝手な話なんですけど」
ここで出てくる「作品重視」という岸田の発言に、くるりというバンドがメンバーチェンジを繰り返す本質が隠れている。前出の「ナタリー」のインタビューで岸田はこのように語っている。
「ただ音楽に対するアプローチの仕方がほかのバンドとだいぶ違うからわかりにくいところはあるのかもですね。うちはモノを作るときに作品が第一なんですよね。別に僕が歌ってなくてもいいし、「こういう作品でなければいけない」っていう縛りもない。ただ思い付いて何かが動く瞬間だけに集中していて、そこに邪念は入らないようにしていますね」