その後さらに20キロ先の実家に移動できたが、尾川さんの様子に実母が親戚たちにこう告げたという。
「孫を守るために、関東の親戚宅に娘夫婦を避難させたい。これからは、娘一家には三人で行動させてやってほしい。もう、子どもを避難させる時期にきています」
こうして埼玉県に避難することに決めた尾川さんだが、事故直後から人々の事故や放射線被害に対する意識や情報格差が生じ、その後も自主避難者を苦しめていく。
「避難指示がない避難は『自主的』なもので、自己責任である」
こうした風潮が世間だけでなく政府、行政に蔓延していたからだ。それは自主避難者の生活を直撃する。避難にかかる費用は自己負担で自主避難者には継続的賠償は一度もない。また当初は無償の借上住宅に自主避難者が拒否されることも各地で起こった。
「(自主避難者の住んでいた地域は)避難指示区域ではないから」と、「原発避難者」だと誰からも認めてもらえない。そんな状況のなか、自主避難者たちは我慢するしかなかった。しかも避難が一時的なものなら少しはマシだったかもしれない。それが長期化するにつれ様々な問題が生じていく。
原発事故で失いたくない仕事を捨て、新築したばかりの家を出る。その後運良く避難先に落ち着いたとしても、貯金を切り崩す生活。子どもの幼稚園や学校、進学の問題もあり安定とはほど遠い。しかし自宅周辺の放射線量は通常の10倍から場所によっては130倍以上あり子どもたちを戻すわけにはいかない。そんな生活を余儀なくされるだけでなく夫だけが仕事のためなどの事情で福島に単身戻ったり残るケースも多かった。そんな二重生活を強いられ、夫婦関係が破綻するケースも続出した。そんなひとりがいわき市で夫と2人の子どもと暮らしていた河井加緒子さん(当時29歳)だ。
夫は仕事を再開するため避難所から自宅に戻ったが、河井さんは2人の子どもを連れて埼玉県の公営住宅で避難生活を始めた。しかし夫からは、避難生活に対する経済的援助は一切なかったという。もともと家計が苦しく、また河井さん自身、自分が生活基盤を作れば夫もそのうち避難してくると思っていた。しかし夫は違っていた。
「ある日、夫が河井さんのいないところで「あいつが勝手に避難したんだ」と身内に話していたことがわかった。子どもを守るために避難するのは当然だと河井さんは考えていたが、夫は違ったのだ」