しかも、中居はああ見えて(失礼)、勉強家・努力家の一面がある。中居は手書きのノートをつけ、気になる言葉や文章などを記録しているが、〈「書くことは記録というより、書く意識を持つこと、書く習慣をつけることによって、こんなものの考え方があるのかを知ることになって」いる〉のだという。しかも、〈だから「時々ノートを読み返して、自分の考えがすごく偏っているなぁと思えるとき」には、ノートを「思いきって捨ててしまう」こともある〉とさえいう。太田氏はこのノートの存在を、〈自分の殻に閉じこもるためではない。逆である。むしろ周囲の世界に常にオープンであるためなのである〉と分析している。
この指摘は、コメンテーターとしての中居のことを思い出すと、とても腑に落ちるものだ。以前、本サイトでも記事にしたが、『ワイドナショー』(フジテレビ系)で日韓関係の悪化がテーマになったとき、司会の東野幸治やコメンテーターの松本人志が当たり障りのないコメントをつづけるなか、中居はたったひとり、「謝るところは謝ればいいんじゃないですか?」「お話すればいいのにね。韓国も日本と仲良くしたほうがいいと思いますよ」と、毅然と自分の意見を言葉にした。あきらかにスタジオの空気は“面倒臭いことを言うなよ”というものだったが、きっと中居は、普段から考えてきたことをもとに、広い視野から自分なりの客観性を保とうとしたのではないか。これは場の空気を読む芸人たちとは大きく異なる点であり、日頃の“考える練習”の成果ではないだろうか。
そうした“意識の高さ”は、場合によっては衝突を生むような気もするが、しかし中居にはそれもない。太田氏は中居の特徴のひとつとして〈自分が相手を支配するような関係に持ち込まない〉と綴っているのだが、それがよく伝わってくるのが、2007年の『NHK紅白歌合戦』を笑福亭鶴瓶とふたりで司会を務めたときのエピソードだ。
〈台本を相手の司会者の分まで全部覚えるという中居正広が、他の番組のように台本にとらわれずやろうとする鶴瓶のことを考えてということもあっただろうが、二人の間の特別な信頼感もそのツーショットからは感じられた。性同一性障害であることをカミングアウトした初出場の中村中の紹介の際、中村の母親からの手紙を誠実に、そして丁寧に朗読しようとする鶴瓶。そのときディレクターからの「急いで」という指示に中居正広が首を横に振って言うことを聞かなかったというエピソードは、二人の信頼関係を物語るものであるだろう〉
迎合することと、相手と寄り添うことは違う。相手を知り、尊重するからこそ生まれる笑い、心地よい進行──中居のMCの魅力とは、こうした人をいたわる気持ちがあるからなのかもしれない。たぶん、それは昔からのものだ。思えば森且行がSMAPを脱退することになったとき、会見に同席した若き中居は、脱退を森のわがままだと世間から受けとられないように、笑いを織り交ぜながら懸命に森の挑戦を言祝いでいた。いま思えば、あれは現在につながる中居のMCの魅力が垣間見えた瞬間だったのかもしれない。