たとえば物語の最序盤、ヒロインのひとり「松恵」は、もっとも発育がよいということで、女郎として無理やり客の相手をさせられ、売られた初日に自殺してしまう。
同じく女郎の道をすすんだ「お梅」の人生もハードだ。初めて客を取るのは11歳のとき、まだ初潮すら迎えていなかったという描写が辛い。
他方、いちばんのしっかり者である「武子」は、芸妓としてめきめき頭角を表わし、しまいには政治家や実業家お抱えの「日本国一の芸妓」となって巨万の富を築く。
同じ遊郭の女といえども女郎と芸妓とではまったくの別世界。芸は売っても身は売らないエリートの芸妓に比べて、女郎の役割は過酷である。一日十数人もの男の相手をしなければならず、働いても働いても衣装代やショバ代で借金が膨らんでいく。もし梅毒にかかったら即お払い箱、妊娠が発覚したら乱暴な堕胎処置。そればかりでない。つねに客や世間から差別意識を向けられるのだ。
次の引用はお梅の手記である。文章の拙さがかえって悲哀の念を強調させる……。
〈いつもじょろうたちわ おナカがすいていました まいにち どのじょろうも あそこが いたいいたいと いってます びよきにナってもきゃくをとらされ〉
だが、そんな女郎に憧れる者もいる。それこそ件のバナーの醜女「道子」である。道子はその容姿のため客を取ることを許されず、下働きを命じられた。しかし「このままでは一生女の悦びを知ることもできない」と決意して、「女郎のタコ部屋」「地獄穴」と揶揄される底辺中の底辺の楼に自ら身を……。道子、うわっとか思って、本当にすまんかった。
救いとなるのは、立場こそ真逆であれど、ともに売られた少女たちのあいだに固い絆が結ばれていること。その関係は複雑で、たんなる友情といった言葉では言い表せない。とくに武子からお梅に対する、ある種の“ツンデレ”っぷりには目を見張るものがあるので、この点はぜひとも本編を読んで確認していただきたい。
このように、少女たちが過酷ながらも必死に生き抜く様を描く本作だが、その底流にあるのは、やはり戦争という、彼女たちにはどうしようもできない時代のうねりだ。