そして問題は、暴力団員とその家族の人権だけではない。暴力団を排除することが、必ずしも犯罪の抑止につながるというわけではないという事実もある。『ヤクザとテロリスト』では、警察によって壊滅状態にされた工藤會のとある組員が、こう話している。
「たしかに厳しい状況ですが、残った者たちでなんとかやっています。(中略)たとえいまより法律や条例が厳しくなっても、ヤクザ組織はなくなりません。ただ潜在化するだけです」
これまでは、堂々と“看板”を出して活動していた暴力団が、“見えない犯罪組織”に成り代わるだけだというのだ。
暴力団は、潜在化することでいわば市民の視線を受けなくなるわけであり、逆に犯罪が増加する可能性すら考えられる。そして、その犯罪被害は一般市民へと向けられるのだ。かつて「一般市民を巻き込まないのがヤクザ」などと言われていたこともあったが、その状況が変わりつつあるようだ。
「最近は暴排のせいで正業に就けないことから、危険ドラッグを扱ったり、オレオレ詐欺や強盗、さらにはキセル乗車など『ヤクザらしからぬ』罪で逮捕されたりするヤクザが目立つが、それは食っていくためにしたかなくやっている。
以前はほとんどのヤクザが建設関連業やサービス業などの正業を持っていた。それを取り上げられれば違法なこともせざるをえないのは当然だろう」
暴排条例で一般市民と暴力団との接点がなくなるはずだったのに、潜在化した暴力団員が一般市民を騙すようになるという矛盾が生じているこの現実。こんなことになるくらいなら、暴力団員に何らかの正業を与えておいたほうが、健全な社会を築けるのではないか、とさえ考えてしまう。
これまで、ある種の“必要悪”として、日本の社会が内包していた暴力団の存在。犯罪組織を取り締まるのはもちろん重要なことだが、人権すら無視するような行き過ぎた暴排条例は果たして許容すべきものなのだろうか。百歩譲って、暴排条例で犯罪が顕著に減少したというのならまだしも、実際には潜在化した暴力団による一般市民を相手にした犯罪行為が行われているわけであり、もはや暴排条例は害悪しかないのでは……とも思えてくる。一体何のための暴排条例なのか。いま一度しっかり検証する必要があるだろう。
(田中ヒロナ)
最終更新:2015.07.06 11:59