また、授業に関しては事前に繰り返し練習を行うことは必須で、またその様子を撮影し、何度も見返し弱点を改善する。改善努力はプロとして当然で、指示はタイミングを見て短く的確に。板書とプリントはキレイに。一生懸命やりすぎて多すぎるコメントをプリントに書き込むのはダメで、アドバイスは多くて2つ。
さらに、授業形態について一般性の高い5つを提唱し、その複合によって質の高い授業の実践を目指す。大学で行われるような講義型、過去問題やドリルをメインにする演習型、教師が発問し生徒が意見を言う応答型、自由研究をする研究型、英会話や理科の実験などの体験型だ。
もうひとつ、教員に必要な技術とその効果的な習得の順番を明確にするロードマップも効果的だという。
「たとえ失敗するかもしれないと恐怖しても、一歩踏み出す力を持った教師であってほしい。その失敗を避けるために徹底的に考える人間であってほしい。逃げるため、あるいは自己正当化のために思考する存在であってほしくはない」
たしかに、著者のいうことは正論だ。教師としての責任感、プロ意識、努力、そして生徒への深さは本書からもよく分かる。ふがいない多くの教師たちへの義憤も理解できる。
だが、読み進めていくうちに、違和感のようなものも生じてきた。生徒のため、より良い授業実践のため日頃から本や新聞を多く読み、授業の練習、復習を欠かさない。様々な授業形態を複合的に取り入れ、自己鍛錬を行い、時間がなければ睡眠時間を削る。生徒に常に信用され優しく精神的にもタフ──。本当にここまでできる教師が何人いるのだろう。ビジネスマンでも、ここまでできる人材はそう多くないのではないか。
ひたすら努力しろ、という精神論を繰り返しても効果がないばかりか、一歩間違えれば、ブラック企業の社長の従業員洗脳のロジックに陥りかねない。
凡人の教師が残念な教師にならないシステムを考える必要がある気がするのだが……。
(伊勢崎馨)
最終更新:2015.06.22 08:30