……まあ、ここまでは現在に通じるマツコらしさがあるが、このあとがすごい。マツコの矛先は、このインタビューが掲載される雑誌の親玉である朝日新聞に移行。「好きか嫌いかで言ったら微妙だけどさ、「産経抄」の方がよっぽどいいわよアンタ」と、朝日のライバル紙である産経新聞のコラムをもちだし、こう繰り出すのだ。
「(朝日は)あれ(産経)と闘わなきゃいけないのに、右だか左だか上だか下だか分からないようなぬるいことばっかり書いて。(中略)いつからか新聞って、公平中立でないといけないものだと見なされるようになって、朝日新聞がその代表になっているじゃない。誰もが不快な思いをすることなく読める新聞をつくろうなんて、初めから闘う意志がないわよ」
読者におもねって保身に走るな──。誤報問題以降、萎縮しっぱなしの朝日新聞の人間にはこのマツコの言葉を叩きつけてやりたいものだが、このように当時のマツコから感じられるのは、“ものの価値とは何か”という問いと真剣に向き合うことから生まれる強い批評精神だ。
「ものの真価なんていうものはさ、人が決めることじゃないし、いいと思っている人がいるんだったらそれで結構なのよ。だけど一方で、それをフォローするというか、凌駕するだけのパワーがあるものを見せないとダメなのよ」
大事なのは、既存の価値に凌駕されないためのパワーを見せること。そうした解をもちながらもテレビに消費されつつあったマツコには、引き裂かれるような思いがあったのだろう。このインタビューでマツコは、「もうさあ、最近、全部にケンカを売りたいんだよね。(中略)アタシ、どこでケンカしたらいいと思う? 有楽町の数寄屋橋交差点とかに立つか。びんちゃんみたいに」と、かの有名な右翼活動家・赤尾敏の名を出して鬱憤を表現している。
「ああやって生きられたらうらやましいよね。残念だけどアタシは、社会順応性や理性が邪魔をして、あそこまで踏み外せないんだよね。女装なんて踏み外したうちに入らないわよ。赤尾敏みたいなことができない人間は、生意気なことを言う資格はないって気持ちが常にあるの。だからすごく嫌なのよ今、自分が。安全地帯から発言しているだけだから」
「魂を売るってこういうことなのねって、日々テレビに出ながら感じてるのよ」──いまから7年前、このように語っていたマツコ。だが、昨年発表したエッセイ『デラックスじゃない』(双葉社)を読むと、どうやらこの悩みはカタがついたらしい。