小説、マンガ、ビジネス、週刊誌…本と雑誌のニュース/リテラ

menu

春香クリスティーンが「炎上」して考えたこととは…タコツボ化する「右」と「左」

「タコツボ化」が一概に悪いわけではない。例えば本書のなかで田原総一朗が「集団的自衛権に『毎日』と『朝日』が反対していれば、『読売』と『産経』は賛成するから、両方読めば抜け落ちる情報はない」と述べているように、個人や媒体がそれぞれの立場をはっきりさせた上で、全体としてその意見を眺めるというバランスの取りかたもできるはずだ。

 しかし、彼女は「右」「左」が分極化した結果、例えば特定秘密保護法・原発再稼働に「反対」すれば左派、「賛成」すれば右派……というような極端な見方が生まれてしまうことを危惧する。これらはいずれも異なる背景を抱えた問題であり、簡単に一本の線でつなげられるようなものではないからだ。

「日本では、それらの問題をワンセットにして考えるような人が少なくないようです。まず『右』『左』という相容れない立場があって、『右』が賛成することに『左』はすべて反対。『左』が賛成することに『右』はすべて反対。そんな目に見えない枠組みがガッチリとはめられている……。だから私のような人間が何か発言するたび、見当違いなリアクションが起こるのだと思います。事前にレッテルを貼られるから、予想と違うことをいうと『裏切った』といわれる」

 ここから思い出されるのが「サヨクのワンセット」というフレーズだ。1998年、小林よしのりは『戦争論』(幻冬舎)のなかでマルクス主義・反権力をうたう「左翼」と、明確な思想を持たず人権・平和といったスローガンを振りかざす「サヨク」とを呼び分け、「戦後民主主義は『サヨク』なのだ」と非難した。社会学者の小熊英二は、戦争責任・男女平等・マイノリティの人権などの「サヨクのワンセット」と呼ばれる問題は、1970年代に起こった女性解放運動などを初発とするマイノリティの社会運動と新左翼との連帯に大きくかかわっていると指摘している(小熊英二 戦後日本の社会運動――歴史と現在 プレカリアート運動はどう位置づけられるか/「論座」2007年11月号)。

 昨年9月28日に行われた民主党大学では実際、小林と春香クリスティーン、さらには民主党代表(当時)・海江田万里を交えた会談が実現している。筆者もその場に居合わせていたが、そのなかで小林が「日本では若い人たちが政治の話をしない。『脱原発=左翼』など、政治が〈思想〉ではなく〈イデオロギー〉で見られているからだ」「迂闊に話すとネトウヨに『クソ左翼』だとかレッテルを貼られてしまう。若い人はそれが怖いから、意見を言いたくないんじゃないか」と述べたところ、クリスティーンも「そういうカテゴライズによって、右と左の距離感が生まれることがすごくもったいないと思います」と神妙にうなずいていた場面が印象に残っている。「原発・外国人排斥・集団的自衛権賛成」「原発・ヘイトスピーチ・集団的自衛権反対」など、中身を入れ替えれば現在でもこうした右左の「ワンセット」は簡単に作れてしまう。春香クリスティーンが見せているのは、まさにこれらパッケージへの「戸惑い」ではないだろうか。

関連記事

編集部おすすめ

話題の記事

人気記事ランキング

カテゴリ別に読む読みで探す

話題のキーワード

リテラをフォローする

フォローすると、タイムラインで
リテラの最新記事が確認できます。

プッシュ通知を受け取る 通知を有効にする 通知を停止する