では当時、高等遊民はどのような扱いを受けていたのか。町田の著書に示される膨大な引用をいくつか抽出してみたい。明治末期、苦学生の職業紹介に取り組んだ大日本力行会会長・長島貫兵太夫が雑誌「成功』に寄稿した「高等遊民と社会」のテキストだ。
「『思想とか知識とか云ふ方面をのみに力を入れ過ぎる結果、忍耐と云ふやうな美徳を養成するに遑(いとま)無い』『現今の教育』を批判し、『理屈ばかり云つて頭の高い日用の手紙すら碌に書けもせない者よりも世才に長けた頭の低い者の方が都合が好い』」と、職業紹介する立場ならではの現実的な指摘をする。
明治末期がこれなら、昭和初期の高等遊民に対する指摘は更に手厳しい。岩谷愛石『現代青年成功の近道』では、地方から無計画な上京をしてたちまち高等遊民となる若者を指差しながら、「詐欺、窃盗、人殺し、肺病、淋病、社会主義、危険思想の持主となつて、都会に於けるドン底生活を為し或は農村に還つて不良青年となつて、此社会国家に害毒を流し親兄弟の顔汚しとなりおまけに故郷の名誉を汚すに至る」と、人格をズタボロに否定する言葉を思いつく限りに重ねてみせた。
地方から夢を叶えるために東京へ出てきたものの挫折してしまった青年は、いつの時代にも高等遊民になりやすい。当時、高等遊民を少しでも社会に引っ張り出そうと、政府は「帰農」を推し進めた。つまり、夢なんて追っていないで、とっとと田舎に帰って農業をやれ、と指南するようになったのだ。内務次官から地方長官宛に発した通牒にはこうある。
「事情ノ許スモノハ成ルヘク其ノ出身地方ニ帰還セシメ適当ナル職業ニ就カシムル途ヲ講シ場合ニ依リテハ農業ニ従事セシムル」。とはいえ、昭和恐慌の時期には帰農しようとも働く場所が十分に用意されていなかった。都会から田舎に移ったところで高等遊民のままだった若者たちもいたようだ。
帰農どころかブラジルや満州に移民せよ、という解決策まで説かれていた。とにかく高等遊民許すまじ、という空気に満ちていたことがわかる。明治期には、植民地である朝鮮への植民が提唱された。「所謂高等遊民ハ国内に溢るるに拘はらず、新領土若しくハ国外に於て活動すべき」(『万朝報』)とまで書かれている。現代語訳するならば「ニートはああだこうだ言い訳してないで国外に出て働いてこい」ということ。いまの高学歴ニートに対する風当たりも強いが、高等遊民の先輩たちが受けてきた風当たりに比べれば、まだ生易しいものなのかもしれない。