当時の光秀の年齢は67歳と推定され、遅くして生まれた嫡男の光慶は13歳。光秀が子の代の生き残りに不安を感じていたと、著者は推察する。老いた身体にムチを打って信長に仕え、天下統一でその苦労が報われると思った矢先に中国への遠征。子孫もろとも異国の地に移封されることを恐れ、天下統一が果たされる前にその歯車を止めなければ……こうした一族への想いこそが、光秀を謀反に駆り立てた“真の動機”であったというのだ。
さらに本書は、謀反の動機だけではなく、その実行プロセスも解いていく。たとえば、信長はその日、本能寺で何をしようとしていたのか。なぜ、無警戒にも「わずか二、三十人の小姓しか連れず」本能寺にいたのか。
「本能寺の変」の当日、家康は重臣とともに本能寺へ向かっていたとされる。その同日、光秀軍の兵であった本城惣右衛門が、手柄話として本能寺に討ち入ったことを後年記述している。著者はその一兵卒の覚書を参照しながら、信長に“ある企て”があったことを指摘する。
「信長を討つとは夢にも知らなかった。山崎へ向かっていたところ、思いのほか京都へ行くとのことなので、我々は上洛中の家康を討つものだとばかり思った」
当時の光秀の兵たちは、「信長の命令で家康を討つ」と考えていたというのだ。いったい、これは何を意味しているのか。詳しくは『本能寺の変 431年目の真実』を読んでほしいが、同書は「戦術にきわめて老練」な信長が、自身が張りめぐらした策謀によって、自ら死を招くことになっていくプロセスを鮮やかに解き明かしていく。
しかも、こうした推理に対しては、謀反を起こされた信長の子孫にあたる織田廟宗家13世・織田信和も「ズバリこれが真実でしょう。生き生きとした信長・光秀の姿に触れ、長年の胸のつかえがとれた思いです」という感想を寄せている。
日本史に語り継がれるクーデター「本能寺の変」。その首謀者として、現在でも「裏切り者」「悪人」のイメージがつきまとう明智光秀。類まれなる才覚ゆえに、信長の政権構想に巻き込まれ、後世では秀吉の情報操作を受けた、不遇の武将であった。“一族の生き残り”に命を賭けた光秀にとって、子孫である明智憲三郎氏が自身にかけられたその“汚名”を晴らそうとしてくれたことは、このうえない喜びにちがいない。
(文室 竹)
最終更新:2018.10.18 05:14