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五輪の「被災地」「復興」ないがしろが酷い! コンセプトから消し、開会式でもアリバイ的な扱い…被災県の子どもの深夜動員にも批判

聖火ランナーとして被災3県の子どもを登場させるも詳しい説明なし、完全にアリバイ的

 ほかにも、「復興」の要素を入れようと思えば、いくらでもできたはずだ。前述のような何の必然性もない劇団ひとりのコントや人間ピクトグラムをあんなに長々とやる暇があったなら、被災地を紹介するVTRを流すとか、東北の文化を紹介する時間だってつくることができただろう。今回の開会式では五大陸を中継で結び、各大陸代表が「イマジン」を合唱したが、被災地と中継で結んでダンスや歌を披露してもらうことも可能だった。実際、紅白歌合戦や民放の音楽特番でもそれくらいのことはやっている。

 しかし、東京五輪開会式は「復興五輪」を掲げながら、そういうことさえまったくやろうとしなかった。

 結局、開会式でかろうじて「復興五輪」を表していたと思えるのは、聖火リレーの模様をまとめたVTRのなかで宮城や福島に触れられた場面、五輪旗を掲揚する際のBGM・オリンピック賛歌を東京の豊島岡女子学園高校の生徒とともに合唱したのが、福島県立郡山高校の生徒だったこと、聖火台への点火者となった大坂なおみ選手に聖火をつないだのが岩手・宮城・福島の被災3県の6人の子どもたちだったことくらいだった。

 だが、そのわずかに「震災」「復興」に関係しているように見える数少ない場面も、「おざなり」としか言いようのないものだった。

 まず、聖火リレーのダイジェストVTRは、聖火がギリシャから宮城に到着したこと、福島県楢葉町からリレーがスタートしたことに触れただけで、震災や原発事故、復興についてきちんと言及したわけではない。

 前述の郡山高校の合唱にしても、ただ校名が読み上げられただけ。岩手・宮城・福島の子どもたちの聖火リレーにしても、岩手・宮城・福島の子どもたちであることと、子どもたちの名前が読み上げられただけ。岩手、宮城、福島のどういう町から来たのか、その町の被災や復興の様子はどうなのか、本人や家族が震災や復興過程でどのような経験をしたのか、どんな思いを抱いて臨むのかといった背景はまったく紹介されることがなかった。岩手・宮城・福島が東日本大震災の被災地であることすら触れていない。日本に住む人なら被災地とわかっても、海外の人にはまったく伝わらないだろう。

 1964年の東京五輪の最終ランナーは、広島に原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれた青年が務めたことは有名な話だが、それも「1945年8月6日に広島で生まれた」という背景がきちんと説明されているからこそ、平和への強いメッセージが伝わっている。

 今回はまるで、とりあえず東北3県の子どもを入れておけばいいだろう、とアリバイ的に盛り込んだとしか考えられないようなものだった。 

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