湧き出てくる擁護や問題のすり替え、そして「批判すること」への批判
さらに、今回の森発言は、組織内で一定割合の女性を任用する「クオーター制」とも関係する話だが、とくに日本が指摘されているのが女性国会議員の少なさだ。そして、森発言を受け、野党のおもに女性議員たちが抗議の意を示すべく、アメリカで女性の参政権運動を象徴する白のジャケットや花を身に着けたが、これに舛添要一・元東京都知事が〈失笑を禁じえない。国会は言論の府であって、パフォーマンスの府ではない。五輪の利権の構造などをきちんと調査して、森会長が辞任できない背景に議論で迫ったらどうか〉などと批判。ネトウヨたちも「野党はパフォーマンスばっかり」「それよりウイグル問題に声をあげるべき」などとお得意の“ウイグル話法”を繰り出している。
東京五輪組織委のトップがおこなった性差別発言に対して声をあげ、辞任すべきと当然の批判をおこなっただけで、とめどもなく湧き出てくる擁護や問題のすり替え、そして「批判すること」への批判……。もちろん、これはテレビやネット空間だけの問題ではない。森会長と同じように、これがなぜ性差別かさえ理解しようとしない男性、あるいは男性の特権的な考えを内面化させてしまった女性といった「となりの森さん」がこの社会のなかには数多くいて、女性を抑えつけている。それが現状だということだ。
こうした社会を変えていくには、まず政治やメディアの報道が変わっていく必要があることは言うまでもない。しかし、森会長の肩を持ってきた政権与党の姿勢は言わずもがな、森会長問題を熱心に取り上げてきたメディアにしても、いまだに「女性蔑視と受け取れる発言」(NHK)「女性に対する不適切な発言」(読売新聞)などと伝え、「差別発言」だと表現しようとはしない。
繰り返すが、森会長が辞任しただけでは、この問題は終わったことにはならない。この社会でまかり通っている性差別、それに対する鈍感さ、差別だと声をあげる者を攻撃する封じ込める動きというものを、むしろ今回うんざりするほどまざまざと見せつけられた。この「地獄」を変えるためにも、卑劣な者たちに怯むことなく声をあげてゆくしかないのだ。
(編集部)
最終更新:2021.02.11 08:41