金メダル後も差別され続けた孫は「同じメダリストの前畑にもこんな態度で臨むのか」と
孫がこの事件を初めて知ったのは、帰国のためにシンガポールに寄港した際のことだった。前掲の自伝によれば、日本商船に乗っていた朝鮮人が小さなメモ書きを孫に渡した。そこには「注意しろ! 日本人が監視しているぞ! 本国で事件が発生、君たちを監視するようにとの電文が選手団に入っている」と書かれていた。
実際、選手団を乗せた船が日本の長崎に到着した時、孫は警察に呼ばれ「銃とかナイフのようなものは持っていないだろうね」「帰国途中、誰に会い、どのような話をしたのだ」などと尋問を受けた。
〈刑事の一人が、あたかも犯罪人を取り調べるような態度で横柄に聞いてきた。思わず激しい怒りがこみ上げてきた。これが、そもそも彼らが四半世紀もの間念願していたオリンピック・マラソン金メダリストに対する態度なのか。同じ金メダリストの前畑、田島にも、このような不遜な態度で臨むのだろうか……。〉
身辺ではいつも日本と朝鮮から2名ずつの刑事から交代で監視されていたという。朝鮮選手と親交が深い日本の有力者が訪ねてきたときも、孫は「優勝を返上したい気持ちです」と吐露している。
ベルリン五輪の翌1937年、日本は中国本土への侵略を本格化、1939年にはドイツがポーランドを侵攻し、第二次世界大戦に突入した。アジア初の開催となるはずだった1940年東京五輪は「まぼろし」となった。孫が選手として五輪の舞台に立ち、表彰台から太極旗の掲揚を目にすることはなかった。2002年、「日本初のマラソン五輪金メダリスト」は90歳でこの世を去った。現在も、日本オリンピック委員会は孫基禎の金メダルを「日本代表選手の入賞」として扱っている。
もっとも、『いだてん』ではこれから先、おそらくこれ以上、孫基禎のことが深掘りされることはないだろうし、「日章旗抹消事件」などにも触れられることはないだろう。今夜22日放送の『いだてん』第36回のタイトルは「前畑がんばれ」。一転して、前畑秀子の金メダルでピークに達した日本国内のベルリン五輪への熱狂が描かれるはずだ。
しかし、『いだてん』がこれから描くのはさらに、日本の軍国主義がエスカレートし、戦争の暗雲が広がっていく時代だ。そして、幻に終わる1940年の東京オリンピック。35話でも日本がヒトラーの協力により招致に成功したことを描いていたが、このあと『いだてん』はいったいどう描くのか。安易な「オリンピック・ナショナリズム」に一石を投じることを期待しながら、今後の『いだてん』に注目したい。
(編集部)
最終更新:2019.09.22 04:59