清志郎「そういう歌が全然ないっていうのも、どこか異常」
『COVERS』の場合も「君が代」の場合も、清志郎は「事なかれ主義」で表現を抹殺しようとするレコード会社の人間と徹底的に戦い、自分自身の表現の領域を守ってきた。
しかし、誰もが清志郎のように戦えるわけではない。彼のようなミュージシャンはどんどん希少な存在となっていき、政治や社会的なメッセージを発信することは「タブー」となっていく。
レコード会社はミュージシャンがそういった表現をすることを封殺しようとするし、ミュージシャンの側もそういった表現をすることを自分から避けるようになっていった。そういった状況に対し清志郎は『ロックで独立する方法』のなかでこのように綴っている。
〈ミュージシャン側からの仕掛けがもっとあっていいと思うんだ。「あえて物議をかもすような挑発的なことを歌う」とか「問題になることを見越してわざとタブーを犯してみる」とか、確かになんだかあざとい面もあるだろうけど、ロックにはそういう要素が確実にあったはずなんだ。「あえて誰かを怒らせるようなことを歌う」とか「だれかを名指しで、または名前は出さないけどわかるやつが聴けばわかるようにおちょくる」とか。そういう歌ばっかりになるのもイヤだけど、そういう歌が全然ないっていうのも、どこか異常なんだよ〉
言うまでもなく、こういったことは日本でだけ起きている現象だ。清志郎は、マリリン・マンソンやギャングスタラップのラッパーたちを例に出し、アメリカでは180度逆の状況があると説明する。
〈アメリカなんかが今でもマリリン・マンソンみたいなんが出てきて、良識派が「子供に悪影響があるから放送禁止にしろ」とかカンカンガクガクやる環境がある。ラップにしても、保守的なやつらから危険視されることをガンガン歌ってる。それを業界側も煽って商売にしてる。ミュージシャンの周りの連中が止めたりしない。止めようとしている場合もあるんだろうけど、少なくともミュージシャン側が自己規制しちゃうことはほとんどないんじゃないか?〉
マリリン・マンソンはアメリカ社会を牛耳る保守的なキリスト教系団体を「ファシズム」と罵倒したうえキリスト教自体を愚弄する発言を繰り返して大問題となっていたし、ギャングスタラップのラッパーたちは暴力的な歌詞表現を通じて黒人差別の問題に怒りをぶちまけた。そして重要なのは、こういった音楽が一部のマニアだけが聴くマイナーな音楽ではなく、メジャーど真ん中のポップカルチャーとして多くの若者を熱狂させていたということだ。
清志郎はこの違いを挙げたうえで、〈そういうことが日本にもせめて少しはあっていいんじゃないか? これはレコ倫とか放送コードだけの問題じゃないと思う。まあ、そういうのもうざったいんだけど、それにあまりに素直に従っちゃう側の方が問題だよ〉と綴る。「表現者」なのであれば、「表現者」としての矜持があるだろう、ということだ。
清志郎はキャリアを通じてこのことを訴え続けてきた。