明治の富国強兵政策で生まれた恣意的な歴史観を垂れ流す『日本国紀』
と、まあ、こんな感じで相変わらず、次から次へと疑惑が明らかになっている『日本国紀』だが、コピペ疑惑だけでなく、その内容についても歴史研究家から鋭い批判が出ている。たとえば、『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)がベストセラーになった歴史学者の呉座勇一・国際日本文化研究センター助教は、朝日新聞での連載コラムで〈学界の通説と作家の思いつきを同列に並べるのはやめてほしい〉(2018年12月11日朝刊)などと批判的に評した。
さらに、「週刊文春」(文藝春秋)1月17日号も「『オレはそんなに軽いのか』安倍晋三が元旦にキレた」という記事で『日本国紀』のコピペ疑惑に触れたのだが、そこに呉座氏が寄せたコメントは、まさにこの百田史観本の本質を喝破するものだった。
「同書では、鎌倉時代の質実剛健な武士と対比しつつ、平安貴族を平和ボケと指弾しています。こうした歴史観は、明治日本が富国強兵に突き進む中で生まれたもので、現在の学会では否定されています。百田氏は、戦後日本の“平和ボケ”を非難するために貴族の“軟弱さ”を誇張しており、憲法改正という持論の補強に歴史を利用しているように感じます。安倍首相は読んで共感するかもしれませんが」(「週刊文春」より)
そのとおりだろう。本サイトでも指摘したとおり、『日本国紀』はただの「コピペ本」ではなく、〈日本はアジアの人々とは戦争はしていない〉などと強弁して(中国はアジアではないのか?)、戦前日本の帝国主義と侵略、戦争犯罪を否定・美化し、同時に「敵国」の残虐行為を強調することで相対化するという、露骨な歴史修正主義の“啓蒙本”であり、その最終地点は安倍首相が悲願とする9条改憲だ。
だからこそ、冒頭で紹介したように、安倍首相やその応援団がこの『日本国紀』をやたらと“PR”展開しているのだ。
彼らがSNSで「読んでます」「読みます」と言い始めたのは、『日本国紀』にWikiコピペ疑惑が浮上して、サイレント修正をし始めたあとである。
ようするに、彼らにとって、その書物や資料がどれだけ間違いや問題、恣意性があっても、関係ない。安倍改憲のプロパガンダ本になるのなら、フェイクでもクオリティが低くても、どうでもいいのだ。こうした疑惑がこのままずるずると“なかったこと”にされないように、これからもどんどん『日本国紀』の問題点を周知させていく必要がある。
(編集部)
最終更新:2019.01.22 12:11